in the soup 1





 甘ったるい香水の匂いが鼻につく。
 落ち着いた色調でまとめた書斎の窓を押し上げるようにして開く。カーテンが揺れ、香水の匂いを薄めていった。
 ふと、窓の下に動くものを見たような気がして、昇紘は視線を向けた。彼の名ばかりの妻が癇癪を起こしたような甲高い声で何かを喋っているのを無視して、昇紘はそれを見下ろした。
 いつもは檻にいるはずの青露が芝生の上で腹を見せている。
 瞳の色に合わせた青い革の首輪から伸びた太い鎖の先は少年が腕に巻きつけるようにして握り、白い虎の腹を撫でていた。
 褐色の髪が、風に揺れる。
 声変わりの終わったテノールが、耳に心地好い笑いを響かせる。
 緑のTシャツとゆったりしたジーンズ。足元はスニーカー。ジュニアハイの学生だろうか。
 風に揺れる明るい褐色の髪が、昇紘に遠い昔を思い出させる。
 あれは、まだ彼が大学に通っていた頃。
 忘れていた感情に、昇紘の胸が絞られるように痛んだ。
 追憶を破ったのは、女が振り下ろしたこぶしがデスクを強く打つ音だった。
 昇紘は夢幻から現実に目を向けざるをえなかった。
 いつまでも無視しつづければ、女はいつまでも居座りつづけるだろう。
 わずらわしい。
   赤い口紅と揃いのマニキュアが、まるで獲物を屠ったばかり獣のように自分を見せていることに女は気づいていないのだろう。
 甲高い声で息子の養育費をもう少し上げろと言いつのる。
 養育費も何も湯水のような浪費癖のある女が今月どれほどの金をどぶに捨てたか、その使い道を彼が知らないと本気で思っているのだろうか。制限なしのカードを制限つきのカードに変えた途端、カードの限度額を超えた浪費に首が回らなくなるとは。
 あさはかな。
 昇紘が政略結婚の相手を愛しいと思ったことはいちどたりとてありはしなかった。
 それは、女も同様だろう。
 女にとって、彼は無尽蔵に金をしまいこんだ金庫のようなものでしかないだろう。
 昇紘の子を生んだことを唯一の手柄に、あらゆるものを奪いつくそうとする。
 鬱陶しい。
 なぜ、あの時、この女を気に入っていた昇紘の両親が生きていたとはいえ、一人目の子を不注意から流してしまった時にこの女を離婚しなかったのか。
 悲劇のヒロインぶって周囲の同情を集めたこの女を、両親の言うままに好きにさせたのが間違いだった。
 昇紘がかねて真実を知りたいと願っていたある事実にたどり着いたのは、この女がクリスを産んだ後だった。
 あの時どれほど、我が身を呪ったか。
 あれ以来、昇紘は抜け殻のように息をしているだけだ。
 女のことも、息子のことさえも、どうでもよかった。
 女を残して本宅を出たのも、ただ、自分の要求を押し付けてくる甲高い声を聞きたくなかったからでしかない。
「冷血漢」
 うるさい。
「人非人」
 しつこい。
「こんなにわたしが困っているのに助けてくれないなんて。あなたには思いやりの欠片もないのね。誰も、愛したりなんかしないのね」
 可哀想ね―――――
 あざけるように言われて、
「私が、ほんとうに何も知らないとでも思っているのか」
 低い声だった。
「なにを」
「おまえのしたことを、私が何も知らないとでも」
 抑えた声は、ほんの少ししわがれていた。
 昇紘の鋭いまなざしが、妻を名乗る女の瞳を凝視する。
 その鋭さに、女の顔から血の気が引いた。
 思い当たることがあるのだろう。
「離婚したいというなら弁護士を通じるといい。慰謝料で借金はまかなえるだろう。もっとも私は慰謝料にびた一文、上乗せする気はないがな」
 目の前の女をこれ以上見ているのは目の穢れだとばかりに、昇紘が窓の外へと視線を向けた。
 どれほどの時がながれたのか、女が遠ざかる気配に、
「養育費はこれまでどおりだ」
と、昇紘の声がかぶさるように流れた。

 女と入れ違いに入ってきた秘書に、窓の外を指し示した。
「あれは、誰だ」
 旧大陸の血が混ざっているノーブルな顔立ちのエンリケ・チャンは、昇紘の視線の先を確かめると、
「新しく雇った、青露の世話係です」
 淡々と答える。
「あれが、か。幼すぎはしないか」
 少年の髪が、午前中の陽射しに透けて、コニャックのような琥珀色に光る。
 後ろ足で伸び上がった白い虎が、少年の肩に手を置いて、顔を大きな舌で舐めた。
 普通なら怖気てしまいそうな虎の行為にも、少年は痛そうにしながらも、目を眇めて笑っている。
「歳は十七ですし、一応大学生ですよ」
 留学生だという話です。
 エンリケの説明にも、昇紘は顔を少年に向けたままだった。
 しばしの沈黙の後に、
「呼んでくれ」
 昇紘は、そう命じていた。
 自身の指示に反応を返さないエンリケに、ようやく昇紘が視線を窓の下から部屋へと戻す。
「どうした。彼を、ここに連れて来いと言っている」
 エンリケの瞳を上から凝視するようにして、噛んで含めるように言った。
 一礼をして部屋を出てゆくエンリケの背中を見送り、昇紘は自身思いもよらない言葉を反芻していた。
 なぜ、あんなことを言ったのか。
 たしかに、あの髪の色は、まだ歳若かったころの切ない思いを蘇らせてくれた。
 己の力なさも。
 慟哭までも。
 生きた屍のようでさえあった己に、こんなにもさまざまな感情があったのかと驚くほどに。
「………だからか」
 昇紘の口角が皮肉な笑いをかたちづくる。
「そうか」
「―――――思い出させてくれた礼はしないとな」
 低い声音が、書斎に静かに広がり消えた。


 名前と年齢それに大学の名前と学部を告げる少年は、最初こそ快活だった。
「コーヒーは苦手かな? すっかり冷めたようだが」
 取り替えさせようか。
 最初にミルクと砂糖とを入れたきり手を出す気配のないコーヒーは冷めている。
 少年の背後、ドアの近くに控えるエンリケに合図を送ろうとすると、
「あ、いえ。猫舌なんです」
 冷めたほうが飲みやすいので。
 やっとカップに手を伸ばす。
 浅野郁也と名乗り十七だと答えた少年は、文学部に所属していると告げた。
 カップを取り上げ一気に傾ける。
 象牙色のなめらかな喉首が、コーヒーを飲み下すために何度も上下する。
 カチンとささやかな音をたてて、カップがソーサーに戻された。
 エンリケを呼び、コーヒーの代わりを持ってくるように命じる。
「え、あ、オレはもう」
「将来は何になりたいのかね」
「通訳になれるといいなとは思ってるんですが」
「英語のか」
「できれば、他にもヨーロッパ圏の言語をいろいろ」
 照れくさそうな表情が、よりいっそう少年を幼く見せていた。
「あの、それで、オレをわざわざここに呼んだ理由はなんなんでしょう」
 こんな雑談がしたくて呼んだのか? といぶかしむ表情は年齢相応だ。
「そうだな。私は確認したかったのだよ」
「確認?」
 何をです?
 眉間を狭めるような表情で、昇紘を見返す。
   褐色の瞳が、探るように自分を見てくる。
 ただそれだけだった。
 不思議そうに、不審そうに、自分がなにを考えているのかを探り出そうとしている。
 その必死なようすに、自然、笑いがこみあげた。
   ククッ――――
 喉が震える。
 途端。
 少年の全身がかすかに震え、いぶかしむように眇められていた瞳が大きく見開かれた。
「え、と……青露の世話をしないと」
 喉に絡むようにしわがれたことばを紡ぐくちびるまでもが震えている。
 怖気たように少年が中腰になった時、ノックの音がし、しばらくして扉が開けられた。
「エンリケ、ドアを閉めて出ていろ」
 その場に立ち尽くしたエンリケが、静かに部屋を出てドアを閉める。
 コーヒーの香ばしいかおりがただよってくる。
 昇紘が立ち上がる。
 コーヒーをワゴンからとると、テーブルに戻り昇紘は少年の隣に腰を下ろした。
 ビクンと、今度はあからさまなほどに少年の全身が震える。
 自分を見る郁也のまなざしに、昇紘は不安を見出した。
 なにが起きようとしているのかわからないでいる少年のようすに、芽生えたばかりの感情が煽られる。
「そう」
 ソファの背に右手を回す。
 距離を置こうとするように、少年がソファの手摺まで後退する。
「ただ思い出させるだけなのかどうか、それを確かめたかったのだ」
 何を言っているかわかるまい。
 しかし、それでいい。
 下手に憐れまれるなど、ごめんだった。
「おまえは違う。しかし―――」
 そう。
 同じほどに。
 いや。
 思い出など比べ物になりはしない。
 もとより。
 はるかに強かな存在感は、まるでこれまでの無為をあざけるかのように目の前にある。
 もしかしてこれは、あの女の言葉に煽られただけかもしれない。
 陳腐な捨て台詞でしかなかった。
 そうとわかっていながら、あれは、紛うことなく自分の心の奥底を引き裂いたのだ。
 鋭い棘だった。
 自分からすべてを奪った元凶が、自身の所業を忘れ果てて、今また返す刀で心を引き裂いたのだ。
 自分を苦しめる者に、相応の痛みを―――――。
 しかし。
 あの女では駄目なのだ。
 もはや、あの女に対して覚える感情は、憎悪ですらない。
 無関心だった。
 あの女がどうなろうとかまいはしない。
 籍の不利益になるようなことをしない限りは、生かしておいてやる。
 あの女が苦しもうと泣き喚こうと、この心が動くことはない。
 髪の毛一筋ほどの痛痒すら覚えないのだ。
 だからこれは、血を流すこの痛みを癒すために必要なことなのだ。
「私は、おまえが欲しい」
 低く声が掠れる。
 塞き止められていた感情が、ようやく見出した出口へとほとばしる。
 止めることはできない。
 止める気もない。
 思いも寄らなかったろう台詞に、少年の顔からすべての表情が消えていた。
 思考も止まっているに違いない。
 この隙を逃すなど、愚かなことだろう。
 昇紘の口角がアルカイックな笑みを形作った。


 情交と呼べただろうか。
 ソファの上に固まった少年のくちびるを思うさま味わい、前戯もなく貫いた。
 少年を自分のものにしたいと急く心のままに、腰を揺らす。
 これほどまでに自分の劣情を煽りたてる少年に、我を忘れていたのだ。
 気がつけば少年は血と精液にまみれて無残なありさまで床の上で意識を失っていた。
 少年の拒絶の表情も、嫌悪に歪むまなざしも、痛みにひきつれるくちびるや頑なにこわばる全身の震えさえ、少年はその生々しいまでの存在感で、彼を魅せたのだ。
 涙も血も汗も、甘露と思えた。
 悲鳴も呻きも、許しを請う声の掠れや彼を罵る血を吐く叫びさえ、天使の歌声と聞こえた。
 それでも。
 情交と呼べるものではない。
 あれは、間違いなく、思いやりの欠片とてない陵辱だった。
 わかっていても、あれは、彼にとって甘美な記憶だった。
 少年の青ざめた顔に愛おしさが募ってやまない。
 頑なに拒みながら、それでも、最後には悲鳴をあげて自分を受け入れたのだ。
 その他者を知らない瑞々しい窄まりのきつさを思い出す。
 途端、からだの奥深いところに、癒えたばかりの滾りを覚えた。
「愛している」
 耳元にささやく。
 ぴくとも動かない少年に、意識の欠片すら取り戻していない少年の耳の付け根にくちびるを落とし、きつく吸いあげた。
 それだけで、先には一度も遂精には至らなかった少年のものが、熱を孕む。
 昇紘がうっそりと笑う。
「いい子だ」
 聞く者とていない甘いささやきが、室内に拡散していった。

つづく

up 18:11:46 2009 09 11
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