in the soup  3



 全身が痛い。
 郁也は、涙にかすむ視界をぼんやりと見ていた。
 喉が渇いた。
 けれど、わずかでも動けばすこしは楽になったからだを、ふたたび苦痛が襲うことは火を見るより明らかだった。
 特に酷いのは鞭打たれビロードに擦られた背中と、あの男を受け入れさせられた箇所だった。
 昨夜のことになるのだろうか。
 郁也は、眉根を寄せた。
 唇を噛み締める。
 逃げることができなかった不甲斐なさに、悔し涙がこみ上げてきた。
 閉じ込められていないことはわかっていた。
 あの男に庭に連れ出された不思議に和やかな一時に、何をしているんだろう――――そんな思いが湧き上がってきたのだ。
 壊れてしまったパソコンを修理に出すにも買い換えるにも、金が必要だった。だから、バイトを探して、青露の世話係に雇われたのだ。
 生まれた直後からずっと人間に育てられてきたのだという、まだ大人になりきっていないあの白い虎の世話が、郁也の仕事だった。
 それなのにどうしてこうなったのか。
 なぜ。
 強引に押し倒されてそのまま男の意のままに扱われている自分に、ぞっと怖気が立った。
 あの男、名前を籍昇紘といったろうか。
 マフィアのドンのような立場にいる男に抱かれて、そうして?
 いったい自分はどうなってしまうのか。
 考えれば考えるほど、わからなくなった。
 このままだと変になる。
 駄目になる。
 混乱する頭の中、このふたつのことばだけが、ぐるぐると回っていたのだ。
 だから郁也は逃げ出した。
 広い敷地を抜け出せたのは、偶然だった。
 通用口近くに停まっていたトラックの荷台にふらふらと乗り込んだ。
 それだけのことだった。
 計画もなにも、もとよりない逃亡だったのだ。
 ただ、ラッキーだったに過ぎない。
 けれど、そのラッキーは長くつづかなかった―――――と。
 そういうことなのだろう。
 学生寮に入れるまでという条件で、大学近くのアパートを借りていたということがアンラッキーへの第一歩だった。
 これが学生寮であれば、少しは結末が違っていたかもしれない。
 逃げてすぐに部屋に帰ったということもまた、アンラッキーへの第二歩目だったのにちがいない。
 馬鹿だったのだ。
 間抜けと言い換えてもいい。
 逃げた人間が自分の家に帰るなど、意外性もなにもありはしない。
 けれど――と、郁也は思う。
 ほかにどこに行けばよかったのだろう。
 部屋からすぐに逃げればよかったのかも知れない。
 警察に逃げ込めばよかったのかもしれない。
 けれど。
 自分の部屋こそが何よりも安全な場所だと思えたのだ。
 警察になにを言えるだろう。
 あの男にされたことを?
 郁也の全身が水からあがったばかりの犬のように震えた。
 嫌だ。
 知られたくない。
 震える手でドアの鍵をかけて、カーテンを閉めた。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出して、ミネラルウォーターをそのまま呷った。
 キッチンのスツールに腰かけて、そうしてやっと、郁也は生き返った気がしたのだ。
 日本に帰ろうか。
 そうして全部忘れてしまおう。
 突然帰ったら親父はびっくりするだろうが。
 怒るかもしれないが。
 パスポートと全財産。
 抜けたようになっている腰を引っ張りあげて、隣の部屋に移動した。
 クローゼットの奥からパスポートと通帳を引っ張り出して、ズボンのポケットに突っ込んだ。
 そのまま部屋を出ていたら、多分、帰れていただろう。
 いや。無理だったかもしれない。
 空港にまで追ってきただろう。
 郁也は自嘲に口をゆがめた。
 後になればなるほど、自分の腑抜けさ具合が思い出されて、臍を噛む思いがする。
 パスポートは男に取り上げられ、エンリケに手渡された。その際に男が何かを耳打ちしていたのを、郁也はうっすらと覚えている。
 男の配下に有無を言わせぬ勢いで車に連れ込まれ、そうして、男のいる部屋へと連れて行かれた。
 怖かった。
 これまでもずっと怖くてたまらなかったけど、これまで以上に怖くてならなかった。
 男の目が。
 自分を見下ろす黒い瞳の奥底に、ねばりつくような熱を見出して、気が狂ってしまいそうだった。
 ただ怖いとしか考えられなかった。
 男の配下は全員部屋から出てゆき、部屋に残されたのは、郁也と男だけだった。
 手首にも首にも、全身に、少しでも身じろぎしようものなら自分が苦しむ羽目になる形に、縄をうたれた。
 屈辱と羞恥に全身が焼ける。
 しかし、それよりも、恐怖が勝っていた。
 男の手に握られた、教師が使うポインターのようなもの。それが乗馬鞭だと淡々と説明した男の目の中に、怒りといつも自分に向けられている強く粘つくものを見出して、郁也は声もなく震えた。
 ビリヤードテーブルの上、あられもないどころか羞恥も焼ききれる形に縛められたからだを返されて、四つんばいのような体勢を取らされた。
 男が喉の奥で笑う独特の響きがいつもよりも恐ろしく感じられて、目を閉じたときだった。
 空気を切り裂く音がしたと思えば、背中に鋭い痛みと熱とが爆ぜたのだ。
 喉がヒッと、無様に悲鳴をあげた。
 それを恥ずかしいと思う間もなく、次々と鞭が振り下ろされた。
 声もなくただ黙々と、男が鞭を振るう。
 逃げようとすれば、首が絞まった。
 涙と悲鳴とがとめどなくあふれて、郁也はただそれ以上首が絞まらないようにからだを硬くするよりなかったのだ。
 どれくらいの間打たれつづけたのか。
 背中が焼け爛れるように痛んだ。
 時間の感覚は、いつの間にか郁也から失われていた。
 男が近くに乗り上げてくる気配にとっさに逃げをうとうとして、首が詰まる。
 酸素を求めてもがけばもがくだけ、より一層喉がつまり、目の前が暗くなった。
 死ぬのかなぁ………。
 酸欠で漫然とした思考で頭の中をよぎるのは、どこかの海に浮かぶ自分の死体だった。
 日本にいる父親や悪友が、早くに逝ってしまった母親が、浮かんでくる。
 なんでこんなことになったんだろう。
 今更だった。
 口角を自嘲が掠める。
 その時、郁也の喉が鳴った。
 酸素を求めて、肺が悲鳴をあげた。
 咳きこむ郁也の喉から、いつの間にか男が縄を解いていた。
「……………」
 かすむ視界の中、男がなにごとかをささやく。
 ぐにぐにとゴムのように動く薄いくちびるをぼんやりと見上げていた郁也は、くちびるを奪われ、もがいた。
 嫌だともがいても、縄が外されたのは首だけらしく、手も足も使うことができない。
 ただ首を振りつづけて、やがて目の前が揺れはじめた。
 からだが揺れる。
 口腔を這う男の舌も忘れて、郁也は酸素を求めた。
 郁也の流す血にビリヤードテーブルのビロードが毛羽立ち、背中の傷を擦りたてる。
 男のものを穿たれた箇所の信じられないほどの熱と痛みとともに、ビロードの感触がいつまでも郁也を苛みつづけていた。

 苦しくてたまらない。
 どうして。
 ただ繰り返す。
 からだに残る縄目の跡が、自分に向けられた男の執着の証のようで。
 この先自分がどうなるのかわからない不安に、涙がこみ上げる。
 流れ落ちる涙に、情けなくてならなくなる。
 まるで、女のようだ。
 男に抱かれて、泣き叫ぶ自分が。
 男を恐れて、涙を流す自分が。
 あれから、部屋には鍵がかけられた。
 窓の外には常に誰かがいる。
 ベランダに出て下を見ると、鋭い視線にさらされる。
 庭に出たいと思っても、出ることすらできない。
 息がつまりそうだった。
 誰かに救いを求めたいと思ったところで無理なのに違いない。
 郁也の視線が、うつろに部屋の中をまどう。
 すでに日付の感覚は失せ、いつやって来るかわからない男に怯える毎日が、彼から覇気を奪い去ってしまっていた。
 ―――いつやってくるかわからない。
 それが、間隔が空いてのことなら、まだしもマシなことであったのかもしれない。
 しかし。
 いつ――というのがほぼ連日のことであり、男の気が向いたときであるということが、郁也から逃げる気力すら奪っていたのだ。
 朝来るのかもしれない。
 昼だろうか。
 それとも、夕方か、夜中か、夜なのか。
 熱が下がろうが下がるまいが、男は頓着しなかった。
 背中の傷は、そのたびに抉じ開けられたかのように再び血を流す。
 受け入れさせられる場所は、いつも何かがそこにあるかのように不快な錯覚を脳にうったえかけている。
 胸の飾りは嫌になるくらい過敏になり、まるで下半身に直結するかのような反応をからだが起こす。
 いや。
 違う。
 全身のどこを触られても、そう――なってしまうのだ。
 それが悔しくてならなかった。
 屈辱といえばいいのか。
 羞恥といえばいいのか。
 嫌でたまらない行為を無理強いされて、なのに反応を返すからだが疎ましくてならなかった。
 嫌でたまらないのだから、感じなければいいのだ。
 反応などなければいいのだ。
 いっそのこと人形のように何も感じなくなってしまいたかった。
 いっそのこと―――――死んでしまいたい。
 そこまで思って、自嘲する。
 死ぬ勇気などないくせに。
 痛みを堪えて起き上がる気力すらないくせに。
 ベッドの上に横になっていても、舌を噛むということができる。
 けれど、舌を噛む勇気すらないくせに―――と。
 舌を噛んで死ぬということがどれだけ苦しいか。
 舌を噛んで死ぬのは喉が詰まって呼吸困難の挙句の窒息死だと、郁也は何かで読んだ記憶があった。
 首が絞まり喉が詰まったあの苦痛を思い出す。
 背中に爆ぜる鞭の痛み、それに、今も疼くこの痛みが、思い知らせるのだ。
 自分には、舌を噛み切ることなどできはしないのだと、思い知る。
「喉が渇いた………」
 しわがれた声が、耳を打つ。
 これが自分の声かと思えば、情けなくなった。
 誰もが聞きほれる美声などとは思っていないが、カラオケでハイトーンの歌をレパートリーにしていたくらいではあったのに。
 ここまで掠れてしわがれてしまっては、もうあの辺のは歌えないなぁ。
 留学前夜、友人たちとカラオケで騒いだのを思い出す。
「帰りたい」
 こみあげてくる塊が喉の奥でわだかまり、涙腺をゆるめる。
 パスポートもなければ、手持ちの金などコインの一枚もありはしない。
 シーツを握り締め、郁也はそのまま蹲った。


つづく

up 18:11:46 2009 09 11
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