エンリケは、知り合ってからはじめて長く話した少年の思わぬ頑なさに目を見開かずにはいられなかった。
何も聞きたくはないとばかりにうつむいた少年の後頭部を見つめ、溜息を押し殺す。
忠告というにはおこがましいという自覚はあったのだ。
無理を強いているのはこちらだ。
悦い思いをしてるだろ―――と、下卑た笑いを滲ませる者が配下にいることは知っている。しかしそれは少年を直に見ていなからだ。元来へテロだろう少年にとって今の境遇は苦痛でしかないにちがいない。それ以上かもしれない。それは、嫌悪、もしくは恐怖だ。
はじめて会ったときには自信と希望に輝いていた少年が、今やすっかり萎れてしまっている。
自分が少年を今の境遇に追い落としたと、かすかな罪悪感があった。
結果論になるが、青露の世話に少年を雇わなければ、ボスが少年に溺れることはなかっただろう。
あれはもはや執着ではきかない。
それ以上だ。
先日の命令を行動に移した後、柄にもない罪悪感を覚えている。
清廉潔白を装うほど恥知らずではないが、それでも彼に関する仕打ちは、思い返すたびにエンリケの心を軋ませた。
少年に記憶があるかどうか判らないが、彼は自ら自分自身を最も厭う悪魔のような相手に売り渡したのだ。
意識朦朧とする少年の手にペンを握らせた時の彼の手の熱さは記憶から消えることがない。
先ほど見た警官たちが誰の死を確認しているのか、エンリケは知っている。
この病院にあの死体を運び込んだのはボスの命令だったからだ。
手を下してはいないとはいえ、もしも条件に合う死体がなければ、ボスは作ることさえ厭わなかったろう。幸いなことに、年恰好と血液型が同じアジア系の死体を捜すことなど造作もないことだった。その死体に少年のパスポートと財布を持たせればことは済む。留学生の事故死ということで色々な面倒はあるだろうが、あの警官たちはボスの息がかかっている。もちろん上層部にまでだ。そこはうまく処理してくれることだろう。
処理してくれなければ困る。
警察と裏社会の癒着など珍しいことではないが、それを当然と何もしないようでは困るのだ。
賄賂に見合う働きはしてもらわなければ。
「少し冷えてきましたよ」
少年が震え、同時に呻く。
全身を捻挫していると聞いてはいたが、少しの痙攣ごときでこの状態とあっては、動くのはきついのではないか。
医師は特に何も注意はしなかったが、見ているだけで痛々しく感じた。
これでは、完治するまでかなりかかるだろう。
「そろそろ部屋に戻りましょう」
少年が立ち上がるのを待つ。
痛みは酷いだろうがいつまでもここにはいられない。
これ以上はほかに体調を崩させるわけにはいかないのだ。
出来得るかぎり早い退院が望ましい。
それをボスが望んでいるのだから。
可哀想だが、少年には涙を呑んでもらうよりない。
「早く治さなければ、あなたが辛いだけなのですよ」
退院すれば、すぐにでもボスはあなたを求めるでしょう。
付け加えようとして思い直す。
おそらく、そんなこと、少年が誰よりもわかっているに違いない。
「病室でおとなしくしていてください」
捻挫などそれくらいしか治すすべはないのだから。
ようやく立ち上がった少年が、
「気が狂ってしまいそうだ」
呻くようにつぶやいた。
その後姿を見たとき、郁也の心臓は大きく震えた。
たくさんの人であふれかえるようなロビーにあって、その背中だけが彼の意識を奪った。
「おやじ?」
似ていると思った。
同時にそんなはずがないと打ち消す。
父親は日本にいるのだ。こんなところで自分がこんな目にあってるなど、想像すらしていないに違いない。
しかし、その人物が振り返ったとき、ロビーのざわめきが遠いものとなった。
「!」
間違いない。
どうしてここに父親がいるのか。
そんなことはどうでもよかった。
心臓が痛いくらいに脈打っているのが判る。
懐かしいと思った。
恋しいと。
帰りたいと、切ないほどの思いがこみ上げてきた。
このまま何気なくおやじの横に立って、おやじと一緒に家に帰るんだ。
そうして総てをなかったことにする。
できる気がした。
だから郁也は大きな柱の影から一歩踏み出そうと、杖を前に移動させた。
しかし、ことは叶わなかった。
「なにをやっている」
腕を掴まれた。
刹那にして郁也がその場で硬直する。
今日は男が一緒にいるのだ。
「はなせ……」
男の手を離させようと捻った瞬間、からだに痛みが走った。
うずくまりかけた郁也を、男が抱えあげる。
「どうしました」
近くにいた看護師が気遣わしげに覗きこむ。
「まだ治っていないというのに外に出たいと我侭を言うので付き合っていたところだが、痛みがぶり返したらしい」
昇紘と郁也とを見比べて、
「退屈は判りますが、病室でおとなしくしていることも治療のひとつですよ」
「言い聞かせよう」
まるで父親ででもあるかのようにそう返した昇紘に、看護師が満足した風情ではなれていった。
「あれがおまえの父親か」
何か含みを持たせた男のことばが耳の近くにささやかれた。
ゾワリ――と、郁也の産毛が逆毛立つ。
何故知っているとの疑問は、先ほどのつぶやきを男が聞いていたからかもしれないと思い至ったことで解けた。
「見ているぞ」
助けを求めてみるか?
父親なら息子を助けようとするだろうが。
私がそれを許すと思うか?
「言っただろう? 私からおまえを奪うものは何者であれ許しはしないと」
首を横に振る。
逆らえないのだと、この男のわけのわからない執着から逃げる術などありはしないのだと、痛いくらいに思い知らされていた。
「おまえが父親に救いを求めるというなら、この場であの男を殺してやろう」
救いを求めてみるか?
この男なら、やるだろう。
躊躇いすらしないに違いない。
「許せないなら、オレを殺せよ。オレは絶対、おまえのものになんかならない。お前の物にならないオレなんか、用がないだろう」
自分を抱え上げている男の体が、大きく震えるのを郁也は感じた。
「絶対に、おまえのことを好きになんかならない」
絶対に――だ。
からだは好き勝手されていても、からだから引きずられてこいつを好きになるだなど、そんなことが起きるわけがない。
それくらいでしか男に逆らうことができない自分の情けなさを痛いくらいに感じていた。
こんなことが理由でオヤジが殺されていいはずがない。
からだを捻った瞬間に走った痛みを我慢する。そうして、郁也は、その目に、父親を焼き付けた。
なぜか青ざめてやつれた父親は、どこか放心しているように見えた。
郁也は心の中で父親に別れを告げる。
「別れは済んだか」
まるで郁也の心中を読んだかのような昇紘のことばに、郁也の最後の意地が崩れた。
痛みが全身を駆け抜けた。
それはただ上体を起こしておくだけのことすら苦痛なほどの痛みだった。
それを堪えようと、郁也は昇紘の肩に渾身の力で噛み付き、爪を立てたのだ。
クッ………。
昇紘が楽しくてたまらないとばかりに喉の奥で嗤いを噛み殺すのを耳の傍に聞きながら、郁也はただその状態を維持するだけで精一杯だった。
静かにベッドに下ろされた。
見下ろしてくる男の顔には表情がなかった。
きついまなざしにさらされて、郁也の全身に冷や汗が滲む。
離れてくれ。
もう、この男の顔など見たくもなかった。
顔を背けようとした瞬間、まるでタイミングを計っていたかのように顎を押さえられた。
恐ろしいほど黒い瞳だった。
闇――だと思った。
なにもかもを諦めて、そうして残るのはただ生きているという現実だけだとでも言いたいかのような、絶望に満たされたまなざしだと。
けれど、その奥底にかすかにだが光るものがある。
それが自分に向けられているのだと感じたとき、郁也の全身が鳥肌立った。
駄目だ。
この男は、狂っている。
一見正気なようでいて、その実、どこか致命的なところが狂ってしまっているに違いない。
狂った男が自分に運んでくるもの。それは、破滅だ。
男が口を開いた。
耳を塞ぎたい。
男の声を聞きたくなかった。
しかし―――――――
「知りたいか」
悪魔の囁きだった。
なにを知りたいのか判らないまま、郁也は男の目を見返す。
その瞳。
まるで獲物を狙い定めたら最後、我が身のうちに取り込んでしまうまで諦めない爬虫類めいたものが、自分のからだに絡みつく。そんな錯覚に、慄いた。
「浅野郁也―――は、死んだ」
ぞろりと耳腔にしのびよるのは、ぬめる舌先だった。
「……………」
「おまえの父親は、おまえの遺体を引き取るためにこの国に来たのだよ」
「!」
耳の付け根を吸いあげられる。
そのまま郁也は男のくちづけを受けた。
数瞬遅れて我に返った郁也がもがくたび、からだには痛みが走る。与えられるくちづけは激しさを増し、パジャマをたくし上げて直に触れてくる掌は燃えるような熱をはらんでいた。
郁也が恐慌をきたす。
自分は死んだのだと告げられ頭は混乱し、からだに与えられる刺激に慄きはとまらない。
深く舌を絡めとられ吸いあげられ、からだの奥に熱が点った。
恐怖にからだが竦み上がる
涙がこみあげる。
嫌だ。
習いとなった拒絶の言葉を紡ごうにも、くちびるはまだ男に蹂躙されているままだ。
解放されようと首を振る。しかし、執拗なくちづけはすこしも弛むことがなかった。
やがて、男の掌が郁也の下腹を滑るように愛撫する。
怯えた郁也の動きが止まった。
硬直するように動かなくなった郁也の中心を、男の手がパジャマの布地越しに触った。
「これでも、私のものではないと言い張るか」
笑いを含んだ声で、男が郁也を嬲る。
男の手の動きが熱となって、郁也を翻弄する。
「な、ならな、いっ」
きつく瞑った瞼から、どうしようもないくらいに涙があふれた。
「おまえっなんかっ………っ」
突然直に握られ、郁也のからだが大きく跳ねた。
「い、いやだっ」
解放に導かれた刹那、
「……………」
男が何事かを郁也の耳元でささやいた。
郁也の眇められていた瞳が大きく見開かれ、
「悪魔っ」
と、男をなじった。
つづく
up 14:47:40 2009 10 17
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