in the soup  10




 季節は夏を迎えていた。
 銀のカトラリーとクリスタルのグラスがシャンデリアから降り注ぐ光にきらきらと輝く。
 七本に枝分かれした蜀台が長細いテーブルに等間隔で並び、反射する光を鈍く宿す。
 花と果物が盛られた籠が、品よくテーブルを彩る。
 給仕係がメインを運んできた。
「この夏は島には行かないんですか」
 ふと思い出したように青年が口にした。
 黒髪に黒い瞳の青年は、昇紘の息子である。名前はクリスと言ったろうか。郁也よりも二つか三つ年上のはずである。いつもは母親と一緒に暮らしているが、夏の長期休暇の間は父親のところで過ごすのが習慣になっているのだそうだ。
 小さくちぎったパンを口に運び、咀嚼する。あいかわらず食欲などありはしなかったが、食べないでいるのも間が持たない。それに、少しは食べるようにしようと決めていた。
「島?」
 手にしたワイングラスをテーブルに戻して、昇紘がクリスを見た。
「ナンタケット島。毎年今頃は行ってるのに」
 国内の金持ちたちが好んで出かける避暑地である。
「行きたいのか?」
「ここは暑いですからね」
 クリスが肩を竦めた。
「今年は、避暑はなしだ」
 あれが長旅は無理だろうからな。
 顎で示されて、手にしていたパンを皿に戻した。
「暑いと言うなら、おまえだけで行ったらどうだ」
「いえ。ひとりで行ってもつまらないから、やめときます。この夏一杯はここで過ごすことにしますよ」
 昇紘のに似た黒い瞳が自分を見ていることが感じられた。
 紹介されたのは五時間ほど前だった。


 あてがわれた部屋のソファでぼんやりとしていた郁也は、突然のノックの音にドアを凝視した。
 昇紘はノックなどしない。
 するのは、エンリケか執事のどちらかだ。それでも、からだは硬く強張った。
 ドアから入ってきたのは、二人のうちのどちらでもなく、知らない男だった。
 自分よりは年上だと思うが、この国の人間の年齢は外見からではよくわからない。年上に見えて年下ということもよくあったのを思い出す。
 どこかエンリケに似ていると、郁也は思った。
 それは、黒髪に黒い目という配色のせいだったかもしれない。
「おまえがオレの弟になったってオヤジさんのお人形か」
 近づいてくるなり郁也の顎を持ち上げて、そう言った。
 お人形―――言われた単語に全身が羞恥に小波立つ。
 この男は、自分がどうしてここにいるのかを知っているのだ。
 じろじろと見下ろされて、血が下がってゆくような感覚にとらわれる。
「オレはクリス。おまえの名前は?」
 言わなければ顎を離してもらえなさそうな気がして、
「郁也」
とだけ返した。
「これからよろしく――だな」
 にやりと笑うクリスは、やはり昇紘に似ている。
 そう思った瞬間、郁也の目の前は真っ暗になった。
 エッと思ったときには、既にクリスのくちびるの感触を感じていたのだ。
 心臓だけが激しく動いている。
 昇紘以外が自分にこんなことをするはずがないとの確信が覆る。
 数瞬遅れて、郁也がクリスを突き飛ばそうともがき始めた。
 しかし、弱っている郁也の抵抗など、クリスには物の数ではない。いとも容易く郁也を拘束すると、より深くくちびるを合わせた。
 気がつけばソファの上に不自然な体勢で押し倒されていた。
 男の重みに鳥肌が立った。
 必死になってもがけばもがくだけ、クリスは郁也をからかうかのように掌を滑らせる。
「なにをしているんです」
「ちょっとからかっただけじゃないか」
 エンリケが現われなければ、どこまでエスカレートしたかわからない。
「存外うぶで面白かったけどな」
 そう言うと、やっと郁也を解放した。
 郁也は、ソファの上に座りなおし、乱れた着衣を直した。
 動悸はおさまらず、気が遠くなりそうだった。
「ボスは書斎でお待ちですよ」
 そう言ってエンリケがクリスを追い払うまで、郁也は顔を上げることすらできなかったのだ。
「大丈夫ですか」
 声とともに、目の前に水の注がれたグラスが差し出された。
「ありがとう」
 変にひずむ声で礼を言って、郁也はグラスを受け取った。
「刺激物は出せませんが、なにか飲みたいジュースでもあれば軽食と一緒に運ばせますよ」
 食べたいものもリクエストがあれば言ってくださっていいのですよ。
 そう言われて考える。
 あらためて飲みたいのはと問われてみて、
「オレンジジュース」
と、言っていた。
 言って、耳まで熱くなった。
 ガキだって思われただろう。
 普通にコーヒーも紅茶も炭酸飲料も飲んだが、そういえばあれが一番好きだった。カラオケでもオレンジジュースを頼む郁也は、友人たちから『ガキんちょの味覚だぜ』などと、からかわれたものだった。しかし、濃縮還元百パーセントのオレンジジュースは、捨てたものではないのだ。
 ここに来てからは、水ぐらいしか飲んでないような気になった。
 そういえば、なにを食べたかも記憶にない。
 記憶の最後は、あの日、昇紘と一緒に飲んだコーヒーだった。
 なにが食べたいと問われれば、頭に浮かぶのは米の飯なのだ。そうして、カレーだろうか。懐かしいメニューといえば、そうなる。しかし、日本式のカレーライスがこの国ではマイナーな食べ物だという認識はあった。カレーと言って出されるのはおそらく本格的なインド料理だろう。
「わかりました。オレンジジュースを運ばせましょう」
 エリート然とした表情が少しほころんだような気配があった。口角がほんの少しだけ持ち上がって見える。
「その時に今夜の晩餐の着替えを持ってきますので、午後八時前までには着がえておいてください」
 いつものように迎えに来るのか。
 ご丁寧にと思ったが、口には出さない。
 郁也はうなづいた。
 どうせ拒否したところで無理なのだ。
 なら、逆らわないほうがいい。
 心が辛いと嘆いても、それ以上悲惨な目にあわずに済む。
 胃は痛むだろうが。
 いつも以上に酷いことはされないですむ。
「マシだ」
「マシなんだ」
 つぶやく。
 これ以上酷いことはない。
 今以上に酷いことなんか起こらないんだ。
「そうだろう?」
「そうだ」
 繰り返す。
「駄目だ」
 両方のこめかみに手を当てる。
「ああ!」  涙が流れて落ちる。
「見られた」
「見られてしまった」
「言わないわけがない」
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ」
 クリスと名乗ったあの男が自分にしたことを、エンリケが昇紘に報告しないはずがない。
「もう嫌だっ!」
 ロウテーブルを叩きつけた。
 胃が痛い。
 ほんの少し昇紘の気に触ることをすれば、昇紘は罰だと言って酷いことを強いる。
 クリスにされたことは、絶対、昇紘の気に触るだろう。
 自分のことを弟だと言った。
 なら、彼は兄になるのだ。
 兄。
 父。
 母親もいるのだろうか。
 そうして、全員が、自分の立場を知っている。
 ゾッと震えた。
「誰か」
「誰でもいいから、助けてくれ」
 揺れる。
 心が揺れるから、からだも揺れるような気がした。
「大丈夫だ」
「大丈夫」
 郁也は呪文のようにつぶやいた。


 食後のコーヒーの匂いがリビングにただよう。
 クリスと昇紘とがなにか話し合っているのを素通りさせながら、郁也はマグカップの中のホットミルクを睨みつけていた。
 蜂蜜入りのホットミルクなどというものを食後に飲むようになったのは、退院したその夜からだった。
 退院する少し前に健康診断をされたあと、貧血と胃が荒れていることがわかったのだ。
 年寄りみたいだと思いながら、執事がトレイに乗せてきたタブレットを裂いて錠剤を口に入れた。
 胃薬と増血剤だそうで、飲むと暫く気分が悪くなる。
 かなり大きな二錠を口に含み、ミネラルウォーターで流し込んだ。
 目を瞑る。
 錠剤が喉を通る感触が苦手なのだ。
 ごろごろと異物感がして、吐きそうになる。
 とりあえず胃におさまったのを感じて、一旦テーブルの上に置いておいたマグカップに口をつけた。



つづく




up 18:21:45 2009 10 25
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