in the soup  14




 この支部長はなんと言うのだったか。
 この地域の者に知られるだろうことは予測済みではあったが、着いてさほど経たないていどの時間差で訪ねて来るとは思わなかった。
 一見裏社会とは無縁に見える伊達男は、饒舌だ。喋らなければ損だと考えている手合いなのだろう。
 にこやかで軽い弁舌に反して、目の奥深くに満たされない心を覗くことができる。それは、目の前の男が女性を喰いも物にしてのしあがって来た手合いであることの証だ。
「それでは明日の夜、お待ちし申しております」
 野心家の目をした男を思い出しながら、昇紘は、眉間に深い皺を刻んだ。
 確かあの男だったろうか。
 クリスがそういえばと言った風に思い出してみせたのは。
 クレアの所に足しげく通っている男がいるという話だった。
 気にかけることはなかったが、立場上ではあれ自分の妻であることを望んでいるのは彼女自身なのだ。彼女がその立場を理解しているならば、自分以外と情を通じることは即裏切りに繋がるとわかっているだろう。
 分別のないことをすれば、自分がどうなるか。
 それを読み違えているというのなら、それだけの女でしかない。
 自分は、わずかの躊躇も見せず、あの女の命を奪うことができる。
 そう。
 あの女のしでかしたことを、自分は決して忘れてはいないのだ。
 わすれられるはずがない。
 あの心の痛みを。
 飢餓感を。
 飢えだ。
 そう。
 今もなお自分を苛む飢えを。
「郁也」
 主寝室のドアを開ける。
 古い飢餓を癒しながら、新たな渇望を抱かせる存在の名を呼ぶ。
 どれほど求めても、抱いても、手に入らない少年を。
 ただ一度だけ、少年に向かって告げた愛の言葉は、少年自身聞こえてはいなかっただろう。それでよかったと、今では思う。愛していると口にした途端、また奪い去られるのではないかと思えば、口にすることさえも憚られる。
 郁也がここにいるということが、それだけが現実でありさえすればいい。
 満たされることのない想いは、耐えてゆこう。
 これまでを思えば、容易いことに違いない。
「郁也?」
 ソファの上には、疲れきったからだを放置したはずの少年の姿がなかった。
 からだの中に大人の男の爪ほどもある多面体のエメラルドを入れられて、出すことをさえ禁じられて、あの少年が動けることが意外だった。
 ぐるりと室内を見渡す。
 いない。
 澄ませた耳が、かすかな音を拾ったような気がした。
 水音のようだった。
 バスか。
 足を向けた昇紘は、郁也が自殺を図ったのではないかと咄嗟に思った。
「何をやっている。バスタブで溺れ死ぬ気か」
 声がこわばりつくのが自分でわかった。
 タブの中に腕を突っ込み、引きずり出す。
 確かな重みが腕から伝わる。
 咳き込む郁也に、少年の生を感じた。
 しかし、胸の内にこみ上げてくるのは、どうしようもない怒りだった。
 安堵を押しのけて、胸の中を占拠する。
 どうしてくれようか。
 背中をさする頭の中、その一言だけがこだましていた。
 そう。
 そのまま、郁也を思うさま蹂躙していたとしてもおかしくはないほどの激情だった。
 いつもなら全身を硬直させて自分が触れるのをやり過ごすはずの少年が、思いがけない行動に出なければ、昇紘はそうしていたに違いない。
 郁也が、まさか、自分の腕に縋り付いて来るなどと、想像したこともない。
「ごめんなさい」
「もう、出して」
「お願い」
「苦しい」
 泣きながら、抱きついて来る少年に、からだが熱を持つ。
 何を出せと願うのかに思いいたるのは、すぐのことだった。
 背中のラインをたどっていた手を、そのまま腰へと滑らせた。
 ぬれた肌が水をはじくさまが、瑞々しい。
 滑らかな手触りが、熱を煽る。
 腰の丸みをたどる手と指で、エメラルドが少年を苛む箇所を触れた。
 ほんの少し力を加えると、難なく指を受け入れる。
 少年が爆ぜるように震えた。
 くっきりとした耳から顎へのラインと、その皮膚の薄さを、歯をたてて愛でる。
 どんなに愛しいだろう。
 どうしようもない想いのまま、より深くへと指を二本に増やす。
 エメラルドの固い感触が指先に触れた。
 何が起きたのか。
 理解するまでに、わずかばかりではあったが、時間が必要だった。
 郁也が感じている。
 いつものただ食いしばるだけのうめき声ではない、喘ぐような音が、昇紘の耳に触れた。
 その音を何に例えるべきなのか。
 しかし、その感動は、
「どうしたの? 続きは?」
 ねばりつくような口調とともに自分を見上げてくる瞳の色に、破られた。
「お前は、誰だ」
「誰って。郁也だよ」
 決まってるじゃない。
 声も、顔も、からだも、間違いなく郁也である。
 間違うはずもない。
 しかし。
 その表情と言葉遣いとが、昇紘の知る郁也とはかけ離れすぎていた。
 こんな、ひと慣れしすぎた猫のような甘えた表情や声は、しない。
 昇紘の背筋が、逆毛立つ。
「こんな郁也は、嫌い?」
 くすくすと笑う。
「ああ。嫌がるボクを無理矢理抱くほうが、燃えるんだ」
 残念だね。
 ボクは別に、あなたに抱かれたってかまわないんだ。
 セックスは、気持ちがいいでしょう?
 それは、誰としたって変わらない。
 なのに。
 バカだよね。
 郁也は、好きな相手としかセックスしたくないんだって。
 そうだね。今は、誰ともしたくないって思ってるけど。
 セックスなんか一生しなくったってかまわないってさ。
 もったいないよね。
 あんなに気持ちいいことを嫌うなんて。
 だから、ボクがあなたの相手をしてあげる。
 あなたも、気持ちよくなれて、ボクも気持ちいい。
 これが、一番でしょう?
 違う?
 満面の笑みを、媚が彩る。
 からだを起こして近づいて来る郁也ではない郁也を、昇紘は、ただ凝視する。
「そうだな。おまえもまた、郁也であることにかわりはないのだろう。なら、それでいい」
「来い」
 それに向かって、昇紘は、手を差し伸べた。
「望み通り抱いてやろう」
 にっと、郁也の笑みが深くなる。
 掌にのせられた手を握り、昇紘は、郁也を抱き寄せた。



「なに、あの子っ」
 小さなバッグと一緒にストールを床に投げつける。
 総絹のレースのストールが、柔らかなカーペットの上に贅沢な山を築いた。
 それだけでは物足りないのか、シャンパンゴールドのミュールを蹴るようにして脱ぎ散らかす。
 ベッドの足下にある古い衣装ケースに音を立てて腰を下ろし、クレアは髪に手を入れた。
 髪に吹きかけたラメが掻き回す手の動きにそって、きらきらと舞い散る。
「あんな子供をわたしの息子にしたの?」
 脳裏によぎるのは、パーティ会場での様子だった。
 昇紘の肩にしなだれかかるようにして、その腕を抱きしめる東洋系の少年の姿に、全身が熱くなった。
「なんてっ! なんて恥じらいのない」
 栗色というには少し明るい中途半端な長さの髪の毛を無造作なセットにして、昇紘の趣味に違いない、淡いクリーム色のシャツに濃い色のボレロ風のジャケットとカマーバンド、それに、ズボン。
 耳に光るみごとなエメラルドのピアス。
 そのさまは、年若い愛人とそのパトロン以外の何者にも見えなかった。
「わたしには贈ってくれたこともないのに」
 少年の耳たぶに光ったエメラルドが、クレアの心をかき乱す。
 そう。
 いつもねだってやっとだった。
 気の利かないと思ったが、それが自分に対する興味のなさだと気づいた時、悲しみよりも先に怒りに駆り立てられた。
 この自分を無感動に見下ろす黒いまなざし。
 ほんの少しでいいから笑いかけてほしいと、どんなに願ったろう。
 それが、あんな冴えない女性のために叶わないことだと知らされて。
 次には、小生意気そうな、少年が自分の夫の心を捕まえている。
 これを屈辱と言わずに、なんと言うのか。
 教えてほしい。
「わたしをなんだと思っているのっ」
 息子さえもが、思い通りにならない苛立たしさが、心をささくれ立たせる。
「わたしは、籍の妻なのよっ! クリスの母親だわっ!」
 誰も愛さないんだろうと放った捨て台詞に、当てつけるようにして愛人を持った夫に対する激しい怒りが、嫉妬ゆえなのだと、クレアは嫌になるほど知っていた。
 カード限度額を使い切り、困りきったときに夫の代理人からの依頼がなければ、あんな男娼のような少年を自分の息子にするはめにもならなかったろう。
 クリスが夫の跡を継ぎさえすれば。
 と、思ってもクリスを夫の君臨する世界に入れようと思っても、当のクリスは何を考えているのか、気楽な大学生活を送っている。
「クリスが跡継ぎなのよっ!」
 息子が相続するだろう財産の半分を、あんな男妾に与えることなど、許したくなかった。
「マダム」
 どうなさいました。
 入って来たのは、色香をたたえた、クレアよりも年下に見える男だった。この日のパーティの主催者である。
 濃い栗色の髪が乱れて額にかかり、整えられた口ひげが、男の艶めきをいっそう彩っている。
 甘くほころんだ口元は、まるで今にもクレアの口を塞ぎそうだ。
 しかし、その目の奥には、とろけるような甘さなど一片もたたえてはいない。ただ喰らい尽くそうとする者の証である、渇望だけがとぐろを巻くのみだった。
 手にしたグラスを口元に掲げる。
「オリバー。寝室に入って来るなんて」
 クレアの青いまなざしが、厳しい色を宿す。
「オーケー。マダム」
 皮肉気な笑いをほほに刻み、オリバーと呼ばれた男は寝室から出て行く。
 その背中のたくましさに、熱いものを覚えながら、あえて黙殺する。
 誰に言われるまでもなく、立場はわかっているつもりだった。
 自分は、離婚後の自由よりも、昇紘の妻でありつづけることを選んだのだ。
 少しも自分を見ることのない、あの冷たい男の妻でありつづけることを。
 だからこそ!
 あの軽薄そうな少年が、許せない。
 その思いが強くなる。
 情事の名残をその耳の付け根に宿して、人の劣情を煽る空気をまとわりつかせたあの少年が。
「あんな子、いなくなってしまえばいい!」
 そうだ。
 いなくなればいい。
 この目の前から。
 昇紘の傍から!
 いっそのこと。
「死んでしまえばいいのに」
 赤いルージュを引いたくちびるが、ニィと、笑みを形作った。
 それは、決して心地好いものではなかったが、独りぎりの寝室の中、クレアのその笑みを見るものはいなかった。



「おいおいおい」
 どうしちゃったの。
 クリスが目を剥いた。
 郁也のあまりの変貌ぶりにである。
 あれでは、まるで男娼のようだ。
 周りも、郁也をそう見なしているだろう。
 耳の付け根のキスマークは、セットされた髪の毛に、一見隠されているようでちらちらと姿を現してはまた隠れる。
 エロティックな意味での彩りの薄い郁也ではあるが、それが一種の吸引力となって、その気のある男たちの視線を集めているのだ。
 あの少年が、あの日、泣いて嫌がっていた少年と同一人物とは到底思えない。


 初めて弟になったという日本人の少年と顔を会わせた日、悪戯心からしたキスが彼にどういう影響をもたらしたのか。
 父親と愛人とのベッドルームになど興味はなかった。しかし、あの少年が相手であれば、興味もわこうというものだ。あまりにも愛人という立場とは不釣り合いな少年に、興味が湧いていた。それに、息子としては、父親に、愛人がいるということには複雑な気分を抱かずにはいられない。それが、正直なところだ。
 父親が性悪な愛人にたぶらかされているのであれば、やはり、息子としては反対すべきだろう。
 だから、これは、義務なのだ。
 自分の中の好奇心に無理矢理理由付けをして、その日の晩餐の後の数時間を、クリスは少年の部屋のクローゼットで過ごした。
 驚いたのは、クローゼットの中味だろう。
 なにも、ないのだ。
 愛人のワードローブと言えば、豪華な服飾品のイメージだが。少年の着衣はなにもなかった。少年が身につけているものといえば、晩餐のときに着ていたいささかフォーマルにすぎるひとそろいとは違い、ガウン一枚きりだ。
 彼よりも早くにこの部屋に入ったクリスは、彼が戻ってからの行動をすべて見ていた。彼は執事と一緒にこの部屋に戻り、執事に促されるまま着衣を着替えたのだ。執事は、今彼が身につけているガウンを渡すと、それまで郁也が身につけていたものをすべて手にして出て行った。
 この部屋には、他に、衣類をしまっておける戸棚などはない。なのに、パジャマも下着も見当たらなかった。
 何十分間も、少年はただぼんやりとソファにうずくまっているだけだった。
 何もしない。
 ただ、何かから身を守るかのようにうずくまっている。
 そうしてなおも時間が過ぎてゆく。
 クリスは自分が何を目的にこの部屋に忍んでいるのか、わからなくなって来ていた。
 観察をする相手は、ただうずくまっている。それだけなのだ。
 微動だにしないわけではないが、ただひたすら、気配を消そうとしているかに見える。
 これは。
 いぶかしさを通り過ぎると、哀れささえ覚えて来る。
 愛人という言葉とのあまりの乖離ぶりだ。
 愛人と聞けば、美貌と肉体美を誇り、相手を引きつけるフェロモン全開の人間をイメージする。
 しかし、これは、なんだ。
 最初の挨拶で押し倒すようにしてキスをした時の少年の反応を思い出す。
 少しも、応える気配はなかった。
 ただ、嫌がり、押し返そうとばかりしていた。
 望むのは逃げること。
 そうとしか思えない反応だった。
『あなたのお父さまが、愛人を籍に入れてくれるように頼んで来たのよ』
 十七歳の少年ですって。
 何を考えているのかしら。
 別居中の夫婦とはいえ、妻に愛人を籍にいれるよう頼む父も父なら、忌々しげに眉間に皺を寄せてそれを承知した母も母だ。
 上流階級のプライドだけで生きているような母と別居をしてはいても、父には愛人の噂はなかった。どこで聞く噂も、堅物、永久凍土が服を来ているに違いない、そんなものばかりだったのだ。
『当てつけに決まってる』
 吐き捨てられた言葉を拾い上げて、水を向けた。
『何か言ったわけ』
『言ったわよ。誰も愛せないのねって』
『それだけ?』
『それだけよ。本当のことだもの』
 ならば、母の言うように当てつけかもしれないと思ったのだ。
 父が母を嫌っているだろうことは、感じていた。
 息子の前であろうと鉄壁のポーカーフェイスを崩すことのない父親ではあったが、話題がクレアのことになると、周囲の温度が下がるような錯覚を覚えることがあったからだ。
 そんな存在に、誰も愛せないと言われたとしたら、自分であればおそらくこれ見よがしに愛人を作るだろう。
 性格が悪いという向きもあるだろうが、そういうものな気がする。
 もっとも、相手は、籍昇紘だ。もしかしたら、全くの見当はずれなのかもしれないが。
 籍昇紘が選んだ相手が、同性だというのには、驚いた。
 同性が悪いとは言わない。そういう趣味嗜好はそのへんにごろごろ転がっている。
 ただ。
 これまで愛人の“あ”さえ噂にならなかった男が選んだのが、いきなり、同性、しかも自分の息子よりも若い少年だと言うのだ。
 これに驚かないヤツは、感情が麻痺しているに違いない。
 幼い愛人に鼻面をとられている父というイメージがどうにも不快だった。
 だから、嫌がらせもかねて、ああいう演出を試みてみたのだ。
 ぐるりと回想が元に戻って来た時、クリスはノックの音を聞いたと思った。
 父か?
 装飾の隙間から息を殺して外を見る。
 郁也もドアを見ているようだ。
 入って来たのが執事だった。
 なんだ。
 郁也がゆっくりと立ち上がる。
 執事が促すようにして、バスルームのドアを開いた。
 なんだ? あいつ執事に風呂入れてもらっているのか?
 ただのお姫さまタイプだったのか?
 その考えが違っていると知るのはすぐだった。
 執事が郁也がそれまで身につけていたものを持って、出て来たからだ。
 そういえば、入ってくる時も、執事は何かを持っていた。
 まてよ。
 この部屋には、着衣の一枚も置かれていない。
 それは、確認済みだ。
 部屋にいるときに、いつもこうなのだとすると、彼は着衣一枚自由にできないでいるのだろうか。
 親父何を考えてる?
 無意識に愛人というからには契約だろうと考えていたが。
 もしかして、無理矢理か。
 本人の同意を得ることなく、閉じ込めているのか。
 だとすれば。
 腑に落ちる気がした。
 本当に、彼は、親父さんのお人形なのか。
 意思もなにも無視されて、ここにいさせられているのか。
 嫌みで口にした単語が正鵠を射ていた。その爽快感は、ない。
 これは、やばいだろう。
 もとより裏社会に属する身が、何をと思わないでもないが。
 それにしても、だ。
 性犯罪でマフィアのボスが逮捕など、下の下にちがいない。
 そういうことにはならないようにと、祈らずにはいられなかった。
 バスルームのドアが開き、濃紺のパジャマに着替えた郁也が現れた。
 それまで座っていたソファには見向きもせず、窓際に立ち尽くす。
 当然だが、外は暗い。
 ガラスに映る顔の輪郭は、青白い。
 ただ、郁也は立ち尽くす。
 いたたまれないのだろうか。
 身の置き場もなく、どこにいればいいのか判らないのか?
 望んでここにいないのだと。
 ここになどいたくはないのだと、全身で物語っている。
 無為に時間が流れて行く。
 耳につくのは、クーラーの音ばかりだ。
 突然、空気がゆらいだ。
 郁也の手が、カーテンを握りしめる。
 固く。
 きつく。
 血の気が失せるほどに、握りしめる。
 まるで、カーテンにしか縋りつくことができないのだと。
 何にも気を許すことはできないのだと。
 父が来たのだ。
 ノックもせずに入って来た父が、郁也を背後から抱きしめた。
「なにをされた」
 固く冷たい、尖った声だ。
「クリスはおまえになにをした」
 嫉妬に狂った男の声に、思えた。
「なにも」
 怯え震える声は、力なくこぼれ落ちる。
「私をだませると思っているのなら、間違いだ」
「知っているなら、聞かなくてもいいだろ」
 反論は、しかし、かろうじてクリスの耳に届くていどのかすかなものだ。
 固く凝り着いた時間が流れて行く。
 もう声は聞こえない。
 ただ、冷たい怒りの波動だけが、伝わって来る。
 郁也の怯えが、伝わって来る。
 何を言われたのか、突然、郁也が暴れだした。
「おとなしくしていろ」
 これまでクリスが一度として聞いたことがないほどの、厳しく冷たい声だった。
 冷たく、しかし、その奥に秘められた熱が感じられるほどの。
 郁也の怯えが恐怖に変わる。
 そのまま動けなくなった少年をきつく拘束し直し、昇紘がくちづけた。
 熱情を伝えようとする、深いくちづけだと判る。
 しかし、少年は、ただ拒絶する。
 頑に拒絶しつづけて、やがて、全身から力が抜けたのだろう。
 ソファに場所を移して、そのまま上から愛撫を施しはじめる。
 ただ抗いつづける少年を陥落しようとする男の手管が、ことごとく少年の強情さの前に無為なものへと変貌を遂げて行くのを、クリスは見ていた。
 郁也は、快感を感じてはいないのだ。
 性的な接触のすべてが嫌悪に繋がっているのだと、見る者にわかるほどの拒絶反応だった。
 そうして、
「くそっ」
 昇紘の吐き捨てるような声が聞こえた。
 時が止まった。
 そんな錯覚があった。
 ふたりの間に、無言の軋轢が生じる。
 両眼を見開いて、昇紘を凝視する。
「郁也………」
 聞いたことがないほど弱々しい父の声に、クリスは自分の耳を疑った。
 と、突然、昇紘が郁也からからだを離した。そのまま部屋から出て行く昇紘を、クリスは、ただ、見ていた。
 やがて耳についたのは、郁也のすすり泣く声だった。
 いやだ……と。
 帰りたい……と。
 それは、英語ではなかったが。
 つぶやきの意味を想像するのは、容易いことだった。

 つぶさに見てしまった、父親の郁也に対する執着と、郁也の絶望とに、何ができるというのだろう。
 ただ、第三者には、この先になにが待ち受けているのか、おぼろげに推測できる気がするのだった。
 自分にできることはと言えば、ただ、それを、引き延ばすことにすぎない。
 ほんのわずかでも、それが訪れるだろう時を、遅らせる。それしか、自分にはできないだろう。
 どうしようもない。
 なにより、長く凍りついていた昇紘の心があの少年を求めたのだとしたら。
 父親の素の顔を初めて見た。
 永久凍土と噂されるばかりの、父親の生の姿を。
 おそらく、情熱は、あの少年のために解放されてしまったのだ。
 恋情。
 恋着。
 執着。
 渇望。
 欲望。
 肉欲。
 そんなもの、第三者がどうこうできるものじゃない。
 引き離したところで、心は止めることができない。
 想いは止まらない。
 少年には悪いとは思うが、父の想いは、止められない。
 そういうものなのだろう。
 クリスは溜め息をついた。
 先延ばしの方法としては陳腐だろうが。それでも、しないよりはマシだろう。
 少年が泣きつかれて寝入ったのを見届けて、クリスは部屋を後にした。
「いたのか」
 驚くでなく自分を見る父親の問いかけに、肩をすくめた。
「クレアにでも言われたのか」
 長椅子に足を伸ばして、昇紘がクリスを見上げていた。
「まさか。親父さんをたぶらかす愛人の正体を看破したかったのですけどね」
 手近の椅子に腰を落ろす。
「どうだった」
「まったく。ただのガキですね」
 その返答に、昇紘は喉の奥で短く笑った。
 カードテーブルの上の切り子のタンブラーから勝手にブランデーを失敬する。
 一口飲んで、
「ひとつ提案なんですけど。聞いてくれますか?」
「言ってみろ」
「一週間から二週間、彼も連れて近場でバカンスなどどうです?」
「駄目だと言ったはずだが」
「ただのガキに、親父さんの執着は強過ぎますからね。気分転換も必要だろうと思うわけですよ」
 気が塞いだままでは、怪我の治りにも影響すると思いますけどね。
 グラスの底に残るブランデーを一気に呷る。
「エンリケを呼んでくれ」
 それが昇紘の了承だとクリスは承知していた。


 流した視線の先、昇紘の背後にたたずむエンリケまでもが、どこかいつもの張りをなくしたような風情で郁也を見ている。
 もっともそれに気づいているものは、せいぜい、自分くらいなものだろう。ザカリアスが気づいているとするなら、おそらくそれは、雰囲気でそう思っているだけだろう。
 エンリケは、自分はもう郁也とは会えないだろうと言っていたが、そんなことがあるわけがない。なぜなら、エンリケがもしも仮にどれほど手強い恋敵だとしても、エンリケ以上の秘書は手に入らないのだ。それを昇紘は誰よりも知っている。
 しかし、それは、同時にエンリケにとって辛いだけのことだろう。
 たとえ、エンリケの恋心が同情を起因とする移ろいやすいものだとしても。
 不憫なのは誰よりも郁也だろうが、それにもまして、
「いい大人たちが、難儀だねぇ」
 肩を竦める。
 郁也の変貌は、吉と出るのか凶とでるのか。
「おそらく」
 無邪気にフェロモンを振りまく郁也とは正反対に、昇紘の表情は、永久凍土のようにいつにも増したポーカーフェイスだ。
 郁也の変貌を快く思っていない証だろう。
「このままでは済まないよなぁ」
 イヤな予感を追いやるように、クリスは首を振った。
 ただ酒を飲みに来たというのに、この気苦労はなんだろう。
 溜め息をつきながら、クリスは知り合いと喋りだした昇紘に手持ち無沙汰になったらしい郁也に手を振った。



つづく




up 16:27:58 2010 01 02
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