in the soup  22




「クリス?」
 帰ってきたと思った息子の姿が見えなかった。
 ほんの先ほどだったと思ったのに。
 気のせいだったろうか?
 クレアは手にしたティーポットを、薄い磁器のカップに傾けた。
 イングロリアが持ってきたフランス産の紅茶の馥郁としたかおりが部屋に満ちる。
「どうしました?」
 イングロリアがカップを受け取りながら言う。
「最近、クリスの落ち着きがなくて」
「ご子息の?」
「そう。五日くらい前からかしらね」
 五日というクレアのことばに、イングロリアの記憶が敏感に反応する。
 五日前と言えば、ボスの愛人とエンリケがいなくなった日のことだ。
 もちろんそれは、ボスの館にいる直属の部下たち以外には知られていないことだった。愛人と部下に裏切られたなど、公にできるものではない。捜索はしているだろうが、遅々として進まないのは知られたくないというプライドが邪魔になるからだ。しかし、イングロリアは知っている。他のものが知るようになるのも時間の問題に違いない。
 少しでも上の位になりたいと思えば、どんな小さな情報にも敏感でいなければ。そうして、それをどうにかして自分の利益に繋げるようにするのだ。
 愛人と部下を自分がもしも見つけたとして。
 見つけるつもりではあるが。
 それをどう利益に繋げるか。
 ボスの前に突き出して、覚えをめでたくするか、褒美を貰うか。
 それとも、部下のほうに恩を売るか。
 ふたりを捜すうちにとある情報がイングロリアの耳に入ってきていた。
 そう。
 愛人と逃げた部下が、他ならないボスの実の子であるということだ。
 それならば、自分がその後押しをすれば、彼を次のボスにすることも不可能ではないかもしれない。そのほうが、今のボスにふたりを突き出すよりも、より出世の糧になるかもしれない。
 そう思った時だ。
 涼しげな目元をした男のすかした容貌が脳裏をよぎった。
「エンリケ・チャンがボスの息子とはね……」
 思わず知らず、口にしていた。
 カチリという音がして、見ればそこに色をなくしたクレアの表情があった。
 しまったと思ったものの、後の祭りだった。
 薄手のカップが揺れてソーサーと触れている。
 クレアの手が、全身が、忙しなく震えているのだ。
「マダム?」
 ゆっくりと声をかけた。
 自分のしくじりを痛いほどに感じていた。
 癇癪じみた高い音をたてて、カップが皿ごとテーブルの上に戻される。
「誰が、誰の息子ですって?」
 クレアの整えられた柳眉が厳しく顰められ、目尻が吊り上がっている。
 軋るような声だった。
「答えなさいっ!」
 鋭い声に、イングロリアの肩が震えた。
「エンリケ・チャンがです。マダム」
「エンリケ・チャン……………」
 クレアの赤く彩られたくちびるが名を繰り返す。
「ああっ!」
 しばらくして、クレアの喉から甲高い悲鳴がほとばしった。



 二粒のエメラルドが昇紘の掌の中で光を弾いている。
 耳朶をなぶるのに邪魔だと外したのは失敗だった。
 悔いたところで、今更ではあるが、臍を噛む心地であることは否めない。
 郁也が姿をくらまして、五日が過ぎようとしていた。
 部下を放っているが、どこに隠れているのか、未だ行方は知れない。
 五日の間にわかったことと言えば、ただ、エンリケが間違いなく自分の息子だと言うことだった。しかし、それがどうしたというのだろう。実の子だとわかった今となっても、彼が郁也を連れて逃げた事実は変わらない。
 今頃、もしくはもっと早くに、郁也はエンリケに抱かれているだろう。
 彼の秘めた情熱を鑑みればこその確信だった。
 それを思えば、腹がじりじりと炙られる心地がする。
 自分をあれだけ恐れる郁也が、エンリケには気を許していた。
 あの場面ばかりが、脳裏をよぎり消えてゆく。
 水槽に映った郁也は、一度も自分に見せたことのない、穏やかな表情をしていた。
 アクアリウムで見た郁也の表情が、体勢が、変わる。
 苦痛に食いしばられるばかりだったくちびるが快感にほころび、甘い吐息をこぼす。拒絶するために肩に突っ張ろうと爪を立てるばかりだった手が、腕が、縋りつくかのようにエンリケをかき抱く。肉の落ちた白い足が、エンリケの充実した胴に絡みつき、汗に濡れほの赤く染まった腰が背がくねる。
 幾度も打ち消そうとするたびに、見たことがないほど淫らになまめく郁也の媚態は、昇紘の頭の中で鮮やかになった。
 妄想だと、昇紘はくちびるを噛み締める。
 昇紘の眉間に、深い皺が刻み込まれた。
 


「愛しています」
 郁也に決して伝わることのない一言だと、痛いくらいに理解していても口にせずにはいられなかった。
 気を失った郁也のゆるやかな背中のカーブを、下から上へと撫で上げる。
 かすかに震える郁也が愛しい。
 しかし。
 愛しいと思えば思うだけ、心の中に深い空洞が穿たれる。
 空虚だ。
 欲しいと思えば思うだけ、郁也はただひたすらに怯え、震え、拒絶する。
 それだけが、郁也の反応だった。
 それでも、触れずにいられない。
 愛しているのだと、欲しいと思うのはお前だけなのだと、告げずにはいられない。
 郁也に自分を刻み付けずにはいられない。
 どうすれば愛してくれる。どうすれば、自分を見てくれる。
 焦りが迫りあがる。
 まるで、この先に待ち受けているのが、破滅だけなのだとでも言うかのように、エンリケはただ郁也を求めつづけた。
 それが郁也を傷つけつづけることになるのだと、充分すぎるほどにわかっているというのに、止めることができない。
 そんな自分をもてあます。
 そうして、ふと思いいたった。
 ボスも、昇紘も、こうだったのだろうか………と。
 どう掻き口説こうと拒絶し怯える郁也を、抱きつづけるほかにすべを見いだすことができなかったのだろう。
 ただひたすらに、求めつづけるほかなかったのだろう。
「親子か」
 意識したことはなかった。
 初めて遠くから彼を見たとき、彼が実の父なのかと思いはしたが、それだけだった。
 実感などなかった。
 ただ、こうして同じ少年に焦がれるところは、血なのかもしれないと、不思議な思いにとらわれる。
 昇紘に郁也を譲る気はなかった。
 郁也は自分のものだ。
 しかし。
 執着する心の片隅が、痛ましさを覚えずにいられないのもまた真実だった。
「郁也さん」
 眠る郁也を抱きしめて、ささやいた。



 声が聞こえた気がして、ふっと、眠りの淵から郁也は引きずり出された。
 背中に他人の熱を感じる。
 誰の熱なのか。
 考えるまでもない。
 郁也の胸が痛んだ。
 やっと………と、息をつくことができる相手を見つけたと思ったのに。
 願いがあるとしたなら、ただそこにいてくれるだけでよかった。
 未来も希望もやさしさも感じられないあの男の元で、唯一の穏やかな存在が、どれだけ救いになってくれたことだろう。それが嬉しかっただけなのに。
 それだけでしかなかったのに。
 肉欲なんて、嫌らしいものはいらない。
 セックスなんて苦しいものはしたくない。
 それなのに。
 涙が出そうになる。
 そんなひとじゃないと思っていたのに。
 自分を抱こうと考えないと信じていたのに。
 哀しくて、悔しくて。
 背筋を撫で上げられて、からだが震える。
 郁也はくちびるを噛み締めた。
 こんなもの、愛じゃない。
 こんなものが愛だというのなら、いらない。
 自分は絶対、ひとを愛さない。
 誰のことも、好きにはならない。
 郁也は頑に目を閉じる。
 閉じた瞼から、涙がながれた。
「郁也さん」
 呼ばれたと同時に背後からまわされてきた腕に、息を呑む。
 からだに触れてくるエンリケの欲望の熱に、鳥肌が立つ。
 郁也は歯を食いしばった。
 気づかないふりをする。
 これでやり過ごすことができればいい。そう願う。
 しかし。
 いつもと同じように、郁也の願いは叶わない。
 抱きしめてくる腕が、当然というかのように郁也のからだをさすりはじめた。
 触れてくる欲望はますますその熱を増し、固く反り返る。
 このままではまた始まると、郁也はエンリケの腕の中から逃れようとした。
 しかし。
 どうやっても、力では叶うことがない。
 もがきつづけた郁也は、いつか、エンリケと正面向いて抱き合う形になっていた。
 底光りのする黒い目が、別の男を思い出させる。
「嫌だ」
 腕を突っ張ろうとしても、容易く掴まれた。
  「怖がらないでください」
 熱のこもった声がささやくのに、ぞっと震えが走った。
 同時に、からだを捻った。
 捻ったからだはそのままに、足を開かされる。
 全身が震えた。
「痛くはしませんから」
 嘘だ。
 どう抱かれようと、痛いものは、痛いんだ。
 なのに。
 足を肩に担がれる。
 それがどれだけ恐ろしいことか。
 苦しく辛いことか。
「大丈夫ですから」
 首を左右に振る。
 振りつづける。
 怖い。
 誰ひとり、理解してはくれない。
 涙が散った。
「もう、嫌なんだ」
「やめてくれっ」
 何度繰り返したか知れない言葉だ。
 通じることのない、ことばだった。
 その証拠に、からだの中心に杭が打ち込まれる。
 灼熱の杭が郁也のからだに絶望の痛みを刻みつける。
 痛い。
 苦しい。
 辛い。
「食いしばらないで」
 誰か。
「力を抜いてください」
 誰か助けて。
 郁也が首を打ち振るたびに、涙が散った。
「郁也さんっ」
 エンリケが熱を放った瞬間、郁也はその日幾度目かの衝撃に再び意識を飛ばした。


 ………郁也。
 ………郁也。
 よく知る声が、郁也を呼んだ。
 それは、いつものどこかひとを小馬鹿にしたようなトーンを殺した声だった。
 ………ボクが誰か、わかるよね。
 わかる。
 わからないはずがない。
 ………もういいだろう?
 ………もう充分だろう。
 ………だから、もう、ボクに代わりな。
 ………辛いだけだろう。ボクが、助けてあげる。ボクなら大丈夫だから。ボクなら、オレのことが全部わかるから。だから。もう、オレは、限界だよ。
 限界じゃない。
 まだ、大丈夫だ。
 ………意地っ張り。
 ほっといてくれ。
 ………辛いくせに。
 ………抱かれたくないくせに。
 ………苦しいくせに。
 代わったからって、同じじゃないか。
 抱かれるのはオレのからだだ。
 たとえ、オレが何も感じていなくても、それでも、結局はオレのからだじゃないか。
 お前が気持ちいいと思っても、オレは辛い。
 ………だから、代わってやるって言ってるだろう。
 ダメだよ。
 抱かれてると思うだけで、辛くてならないんだ。
 ………ぐだぐだと! わからないんだから感じてないに決まってるじゃないか。
 ………安心してボクに任せればいいんだ!
 強く苛立つ口調とともに、何かに強く圧迫されるような感覚が郁也に襲いかかった。



「クリスさんはアドニスと呼んでいましたよね」
「あれ、わかる?」
 ベッドの上にしどけなく横たわったままで、郁也がにやりと笑った。
 薄い掛け布が、郁也のからだのラインを露にしていた。
「雰囲気がまったく違いますからね」
「ボクなら、あんたは抱こうなんて考えないよね?」
「そうですね。あなたが郁也さんだということはわかっているのですが」
「タイプじゃないと」
「申し訳ありませんが」
 まぁ、そういうこともありだよね。
 クスクスと笑う。
「クリスさんがパスポートを届けてくださるそうです。もうじき着くそうですよ」
 起き上がれますか?
 郁也に手を貸し上半身を起こし、膝の上にトレイを乗せた。
「これを羽織っていてください」
 自分のジャケットを郁也に着せかける。
「あんたって器用なんだな」
 トレイを見て、郁也がつぶやく。
 トーストとサラダとオムレツが、トレイの上にはあった。
「コーヒーよりオレンジジュースのほうがいいですよね」
 取ってきますね。
 そういって背中を向けたエンリケに、
「パスポートって」
 思い出したように、言った。
「どこか、ボスの目の届かないところに行こうと思うのですが」
「………あるの? そんなところ」
 エンリケの眉間に落ちた翳りに、
「一カ所だけだったら、ボクに心当たりあるけどね」
 つぶやいた。
「どこです」
「連れて行ってはくれないと思うけど」
「そんなことは」
「あんたにはできないって。……多分、昇紘にも無理だよ」
 昇紘の名を耳にして、エンリケの口角が引き攣れた。
「名前くらいで嫉妬か……ほんっとうに、あんたってオレにやられちゃってるわけね」
 トーストを取り上げて、郁也が一口齧った。
「私にもボスにも連れてゆけないところとは、いったい、どこなのです」
 両肩に乗せられたエンリケの手を見て、郁也は息を吐いた。
「無駄だって」
「教えてください」
 真剣なまなざしで見下ろされて、郁也は根負けしたらしかった。
「しかたないな。………大使館だよ」
「……………………………」
「ね、無理でしょ」
 郁也は肩を竦めて、食べかけていたトーストをまた一口齧った。
「………………大使館」
 思いもかけなかった場所だったのに違いない。
 エンリケは呆然とつぶやいた。
 確かに大使館に連れてゆけば、郁也は救われるかもしれない。
 しかし。
 それは同時に、郁也の身に降り掛かったすべてが明らかにされることでもある。
 そうなれば……………
「それだけは、ダメだ」
「クリスさん」
「郁也には悪いけどな。大使館に連れてゆくことだけは、NGだ」
 いつの間にかクリスが部屋の入り口に立っていた。
「親父さまが性犯罪者で捕まるのは見たくないからなぁ」
 懐から取り出した小振りの拳銃を手遊びながら、クリスが苦い笑いを口元に刻んだ。
「それに、そんなことをすれば、郁也は何があったか根掘り葉掘り聞かれるだろうし、エンリケも手が後ろに回るかもしれないな」
 誰ひとりいい目に合わないと思うけど。
「それでも、大使館に行くというなら、俺にも考えがある」
 拳銃の安全装置が剣呑な音をたてた。
「連れてゆくかい?」
 クリスはゆっくりと拳銃をエンリケに向けた。



つづく




up 13:30 10/05/05
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