in the soup  23




 室内の空気は凝りついている。
 ベッドヘッドの目覚ましだけが秒を刻む音をたてて、それは錯覚だとばかりに知らぬふりをしている。
 秒針が幾つ時を刻んだろう。
 最初に動いたのはエンリケだった。
「冗談でひとに銃口を向けるのは、怪我のもとですよ」
「半分くらいは本気なんだけどな」
 差し出された掌に銃を乗せながら、
「大使館に行くというなら、本気になるよ」
 クリスは繰り返す。
「ねぇ、アドニス」
 クリスがベッドから様子をうかがっていた郁也を見やる。
 膝の上にトレイを乗せたままである。
 にやりとしたひとの悪い笑い顔に、
「だろうね。多分、ボクも、そうするんだろうなぁ」
 肩を竦めた。
「どうせ叶うなんて、端から思ってないさ」
 だろう、エンリケ?
 まなざしを送り、郁也が笑った。
 郁也の笑いは、エンリケの胸を突いた。
 思わずその褐色の瞳から顔を背けていた。
 あんたには、できないさ。
 投げやりな表情が、郁也の本心を語っている。彼の心から望むものがなになのか。
 そう。
 言われるまでもない。
 自分にはできない。
 郁也を大使館に連れてゆくことなど。
 到底無理なことだった。
 それは、別れを意味している。
 それでも―――だ。
 失えない。
 手放せない。
 他人に奪われるなど、去ってゆかれるなど、考えたくなどなかった。
 やつれて尚滑らかな肌が、この腕の中で熱を帯びてゆく。嫌がり怯えて流す涙の熱さ。恐怖に竦むからだの震えすら、すべてが愛しい。
 この少年愛しさゆえに、自分は狂っているのだろう。
 すべてを投げ捨て、命すら危険にさらしている。
 しかも、想う相手は、自分を嫌うのだ。
 これが狂気でなくてなんだというのか。
 それでも、後悔だけはしないだろう。
 彼を失うことに比べれば、些細なことだ。
 この狂気のせいでどれだけ郁也が苦しもうと、手放すことはできない。
 手放すつもりはない。
 エンリケは郁也を見やった。
 郁也は、クリスと何かを話している。
 掌の中の銃を懐にしまい、エンリケはふたりに近づいた。
「あ、エンリケ、これ。約束のパスポート」
「ありがとうございます」
 受け取った二冊のパスポートをめくる。
 そこには彼と郁也の写真と、別の名前が記されていた。
「ついでと言っちゃ何だけど、その名前で飛行機の予約もしといたから」
 パスポートに挟んでる封筒がそれだ。
「明日の昼の便だから、ここを出るのは明日の朝で充分間に合うだろ」
「本当にお手数をおかけしました」
 頭を下げるエンリケに、
「まぁ、あんたは俺の兄だし、郁也は弟だからなぁ」
 基本ファミリーは身内を大切にするのが伝統だしね。
「裏切り者でも、ですか?」
「これは、完璧に俺のプライベートだろ」
 喉の奥でクリスが笑った。



 マリア!
 何故今になって。
 ほとんど忘れることができていたはずの、女の名前だった。
 昇紘・ヴェルジニ。
 今の夫であり、かつて一目見て好きになった相手だった。けれども、だからといって、それが幸せに繋がるなどとは信じてなどいなかった。
 愛こそがすべてなどという、そこら辺に転がっている夢見がちな少女などではなかったからだ。
 クレアは、思う。
 彼はすべてを持っていた。
 クレアに夢を見させることができるほどに。
 たとえ裏社会に属しているとしても、地位も名誉も、金も、彼は生まれながらに手にする男だったのだから。
 そうして、クレアの目を惹きつけた、男らしい容姿も。
 理想の夫となるだろう彼を他人に奪われるなど、愚の骨頂だ。
 そう思った。
 だからこそ、どんなに姑息で凶悪な手段を使っても、妻になりたかった。
 だからこそ、マリアというあの女とその腹の子を闇に葬った。
 自分に甘い父に頼んだ。理由は言わずに、ただ、内緒で部下を貸してと。
 けれど、父は知っていたのに違いない。自分が彼らになにを命じたのかを。彼らもまた、父には告げたのに違いない。もっとも、その後彼らがどうなったのか、クレアは知らないし、知りたくもなかった。
 ともあれ、異郷の地の森の奥、あの女の骸は、オオカミやクマなどの餌食になって果てただろう。
 その骸をこの目にすることはできなかったけれど。
 それでも、証拠に、あの古めかしいリングを受け取った。
 古めかしいダイヤと金のリング。
 カットも古く、輝きも鈍い。それでも、この自分の指に嵌るはずだったリングだ。
 あれはどこにやったろう?
 クレアは首を傾げた。
 古めかしいデザインの上に、手に入れたいきさつがいきさつだった。
 リメイクするにはリスクが高すぎると、すぐに興味をなくしたはずだ。
 それでも、捨てることはできなかった。
 そのはずである。
 見る者が見れば、自分の罪の証ともなる。
 そういう物だったはずだ。
 もっとも、彼が、自分に興味を示すはずもない。
 自分の持ち物になど、もっと。
 今の問題は過去の女の亡霊などではなく、過去の女の忘れ形見だ。
 今ともなれば唯一のクレアのよりどころである、クリスの存在を脅かす。
 クリスが昇紘の実の子であることは疑いもない。
 その彼に、昇紘の跡を継がせたい。それは、母親であれば当然の思いだろう。
 そのことについて、昇紘は何も言わない。
 何も言わないということは、そのことに異を唱えないということだ。
 これまでは、クリスの地位は安泰だった。
 なのに。
 このままではいけない。
 どうにかしなくては。

 もう一度。

 そう。

 もう一度。

 クレアの青い瞳が剣呑な光を宿して揺れた。
「ねぇ。オリバー、お願いがあるのだけれど」



 夜が更けてゆく。
「そういうことか」
 昇紘は、報告書を投げるようにデスクに置いた。
 黒い小さな革製のトレイの上の二粒のエメラルドが、照明にチカリと輝いた。
「エンリケ」
 この男に賞金をとつづけようとして、デスク脇に控えているグレイの目に気づいた。
 この男をエンリケの代わりに雇ったのだった。
 そのエンリケはと言えば、やっと居所を見つけることができたのだ。
 まさかクリスが関わっているとは、考えもしなかった。
 自分にもまだ甘いところが残っているのか。
 昇紘の口角がゆるゆると持ち上がった。
 それは自分を嘲笑うものであったが、控えている秘書と報告をもってきた男の肝を冷やすのに充分すぎた。
 男が冷や汗を吹きながら部屋から出てゆくのに視線をやることもなく、昇紘は秘書に、
「バーナーとドーリスを呼んでくれ」
と、命じた。
 バーナーとドーリスというのはこの屋敷にいる男たちの頭のうちの二人である。
 投げ捨てるようにした報告書を取り上げようとして、昇紘の手がふと惑う。
 気づいたとき、昇紘はピアスを手に取っていた。
 役に立たなかったピアスを一旦は捨てようと考えた昇紘だった。しかし、これが郁也の身体を飾っていたものだと思えば、結局は無碍にすることもできなかったのだ。
「郁也」
 奪われてから、はや五日目が終わろうとしていた。
 静かにピアスにくちびるを寄せる。
 冷たい感触に思い出すのは、嫌がる郁也のからだの震えであり、背けようとする顎のはかなさだ。
 怯え噛み殺そうとする吐息であり、肉付きの薄くなったからだがはらむ熱だった。
 それらが今は別の男の下にあるのだと思えば、焦れずにはいられない。
 募る焦りは嫉妬となり、傍目からはそうと見えはしなかったが、昇紘の中に静かに蓄積されつづけていた。
 はらわたが煮える。
 マリアの子だと、マリアと自分の子だと、言い聞かせてみる。
 郁也を奪ったのは、まぎれもなく自分の子なのだと。
 しかし、なにが変わるというのか。
 変わりはしない。
 そう。
 自分から郁也を奪った男でしかない。
 ひとりの男だとしか、エンリケのことを思えないのだ。
 クリスに対して覚えることのあるわずかばかりの肉親の情すら、エンリケに対しては湧いてこない。
 ひとりの男が自分の愛する者を奪ったのだとしか思えない。
 あるのはただ、男に抱かれているだろう郁也に対する怒りと、郁也を抱いているだろう男に対する憎悪ばかりだった。
「どうしてくれようか」
 バーナーとドーリスの配下と残る三人が率いる五組の男たちは、配下の中でも精鋭ばかりを選りすぐっている。
 どの男も間違いなく腕が立つ。
 バーナーとドーリスの配下を選んだのは、今現在郁也の探索に当たっているのが彼らとその配下だということ以外に他意はない。
 エンリケとクリスそれに郁也を捕らえるということだけならば、全員を使うまでもない。
 それでも、彼らを全員使うことを昇紘は決意していた。
 二度と逃がすつもりなどなかったのだ。



つづく




up 13:56 10/05/30
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