夏 翳  1





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 南国の天気は気まぐれだ。
 突然のスコールに、浅野は、駆け出した。
 すぐ止むとわかっていても、雨の量はかなり多い。止んだあとに襲いかかってくる、むっとする湿気と熱気が厭だった。
(なれねーんだよなぁ)
 ここ、S国の首都に、浅野郁也が父親の栄転に付き合わされて越してきて、ようやく半月が過ぎようとしていた。
 今週に入って、地元の高校に編入した。国際性を身に着けるのにはいい機会だ――などとのたまった父親が選んだのは、私立の高校だった。ただし、日本人学校ではない。中国系やタイやインドなど、さまざまな民族の学生に混じって受ける授業は、基本的に英語だが、一般的な日本の高校生をやってきた浅野にとって、授業のヒアリングだけでも手一杯だった。そんなわけで、まだ、友人の一人もできてはいない。
(まったくオヤジのヤツ)
 栄転だ。外国だ。と、慌しく越しては来たが、越してきたからといって、父と子ふたりの生活がさして変わるわけでもなかった。父親はあいかわらず仕事で飛び回っていて、滅多に家に帰ってこない。こんなんだったら、日本に残ってたほうがなんぼかましだよな――と、思わないでもなかったが、今更日本に帰っても、手続きが面倒だし、まぬけなだけである。
(とりあえず、慣れねーとな)
 英語だ、英語。
 とりあえず、それをクリアすれば、どうにかなる。
 かばんの中に突っ込んでいるMDには、今はポップスやロックの変わりに、英語のヒアリング用の教材が入っている。
 浅野が、地下鉄の駅に続く角を曲がった時だった。
 耳に痛い、甲高い音が、すぐ側でした。
 それが車のブレーキの音だとわかるのに、浅野は、数瞬を要した。
 水溜りに腰を落として、呆然と、目の前を、見る。
 ほんの少し、右の足首が痛いような気がした。
(捻っちまったかな)
 ついてないなぁと、立ち上がろうとした浅野の目の前で、メタルグリーンの高級そうな車のドアが開いた。
 運転席から出てきたのは、ブランドの高価だろう服を着こなした、二十代前半くらいの青年だった。
 無造作にオールバックにした額には、数本の黒髪がかかっていて、その下には、濃い色のサングラスをかけている。
(な……んか、マフィアみたいだ………だったらどーしよう)
 背中に、冷や汗が流れる。
 隙のない動作で道路に降り立った青年は、グラスを取りながら、浅野に手を差し出した。
「ごめんねぇ」
 薄めの形良いくちびるが紡いだのは、全体の印象とやけに不釣合いな、少し間延びしたような口調だった。


 大丈夫だと言いつのる浅野を、青年――籍 清流(せき せいりゅう)は、近くだという自分のアパートへと招き入れた。
 アパートという響きから、つい、日本の住宅事情をイメージした浅野だったが、今更ながら、ここが日本ではなかったことを実感していた。
 億ションもかくやというような、高層の物件のその最上階とそのすぐ下の階ツーフロアぶち抜きが、青年のいう自分の部屋だったのだ。
 そうして、浅野が通されたリビングは、三十畳は余裕でありそうな広い部屋だった。  用意されていた新品のバスローブを着て、リビングに出てきた浅野は、おいでと手招きする清流に近づこうとして、ふと足を止めた。
 瞬間、足首に痛みが走り、その場に尻餅をつくという醜態をさらしたが、浅野は気にもならなかった。
 浅野の意識は、壁に飾られている数葉のジャンボジェット機の写真に釘付けだったのだ。
「へぇすごいな……籍さん、飛行機マニア?」
 足が痛いでしょう――と、あいかわらずスマートな外見とは不釣合いな口調で喋りながら、自分の両脇に手を差し入れて、簡単に引っ張り上げた清流を、浅野は見上げた。 「これ、ルクセンブルグのカーゴルクスだ。ルフトハンザにブリティッシュエアライン、ヴァージンアトランティックに、エールフランス……へぇ、日本のもある。もしかして、全部乗った?」
「写真撮ったのはね」
「すごい」
 いいなぁと、顔を輝かせて、浅野は、清流を見上げた。
「え、えーと……足、はやいとこ湿布しちゃいましょう」
 こほこほと何かを紛らわせるように、数度空咳をした籍が、浅野をそのままの体勢で、ソファに下ろした。


 勧められるまま晩ご飯までご馳走になった浅野は、家にまで送ってもらったのだった。


「あれ、籍さん。どーしたの?」
 学校の正門を抜けたところで、浅野の足が止まった。
 昨日のメタルグリーンのスポーツタイプとは違う、オーソドックスな黒のベンツのドアにもたれて、籍清流が、浅野に手を振っていた。
「ちょっと、つきあってくれないかな」
 昨日の今日なのだが、
「いいけど」
「じゃ、どうぞ」
 助手席のドアを開けて、清流が浅野を促す。
「あ、足の具合は?」
「大丈夫! って、籍さん、前。前見て運転しろって」
 真っ青になって、浅野が叫ぶ。
「誰だよ、あんたに免許証渡したの」
 何しろ、運転しながら浅野の足首に手を伸ばそうとするのだから、焦らないほうがおかしい。
「籍さん、あんた、ドライバー向いてないって」
「そう? 女の子達は、上手だって喜ぶよ」
「お世辞じゃねーの?」
 肝を冷やされたお返しとばかりに、浅野が憮然と返した。
 男ふたりで心中なんて、たまったもんじゃない。
「ひどいな。浅野くんは」
 はは……と、後頭部を掻きながら、清流が笑う。
 それを見て、浅野は、かっくりと項垂れた。
「違う」
「はい?」
「違うって、籍さん。そこは、笑うとこじゃなくって、怒るとこだって」
 昨日聞いた清流のプロフィールを思い出す。華僑のかなりでかい一族のぼんぼんだという話だが、偉ぶったところが少しもない。といえば、聞こえはいいのだろうが。……ともかく、外見だけは、好き嫌いは別として、パーフェクトに近いだろう。すらりとした八頭身で、自分を軽々と持ち上げたりするところから考えると、多分、着やせするタイプだ。でもって、女性がうっとりするだろう、ハンサムな顔。これで、性格もバランスが取れてたら、ほんと、贔屓の引き倒しだって、拗ねるところだが。性格が、人懐っこい上にぽやんとしてる。
(まぁ、だから、いいのかもしんねーけどさ)
 性格まで外見とバランス取れてたら、自分なんか、緊張して喋れないに違いない。
 こういうおおらかな性格だからこそ、昨日だって、ふたりして飛行機のマニアックな話題で盛り上がることができたのだ。
(今度、建造中の飛行機見せてくれるって約束してくれたし)
 それも、籍一族というよりも、清流個人のプライベートなジェットらしい。
 外国の金持ちっていうのは桁が違うよな。
 ぼんやりと、助手席から窓の外を見ていた浅野は、
「ついたよ」
 のほほんとした清流の声に、我に返った。
 いつの間にか車の外に出ていた清流が、助手席のドアを外から開けてくれた。そのまま手まで差し出してくれる。
「手はいいって」
 オレは女の子かよ。
「あ、ごめんごめん」
 つい、癖でね。
 おいでおいでと、手を振る清流について、浅野は、訳がわからないまま、渋い外観の建物に足を踏み入れた。


   慣れないアスコットタイやカマーバンドに、浅野の手が、神経質に、動く。
「ごめんねぇ」
 連れが急用できちゃってね。
「だからって、昨日知り合ったばかりのガキを誘うか?」
 ちろんと横目で睨んだ浅野は、
「ハンドルッ!」
 焦らずにいられなかった。
「頼むから、ハンドルから手ー放すなよぉ………」
「案外細かいね。浅野くんは」
「あんたが大雑把なんだよ」
 渋い外観の建物は、所謂オート・クチュールの紳士服専門店だった。
 時間がないと頼み倒した清流に、店主は、お得意様だからというわけで、神業の職人芸を披露してくれたのだった。
 そうして、浅野が今着ているタキシード一揃いは、わずか数時間で、仕立てあがったわけだ。
「だいたい、わざわざ作る必要ないだろ。どっかで借りるとかすればいいだけじゃん。無駄遣いだよ無駄遣い!」
 支払いの現場を見たわけではなかったが、たった数時間で作られたにしては、着心地はいい。アスコットタイやカマーバンドに慣れていないのを差し引いてもだ。
「だって、ついでだし。似合ってるからいいじゃない。ね」
「う〜〜〜」
 確かに、ついでだった。今、清流が着ているタキシードも、出来上がったばかりだから。もっとも、こちらは、数ヶ月前に注文しておいたものらしい。
 ついでに誂えてくれたのは、浅野の着ているタキシードだけではない。下のシャツから、ハンカチ、カフスボタン、靴下に、クツ。上から下まで、全部。その上、ヘアサロンまでだ。全部でいくらかかったのか考えるだけで、浅野の気は遠くなる。
「オレ、払えないよ」
 つぶやいた浅野に、
「それは、無問題。パーティに出るのは、僕の仕事みたいなものだから、そっちは、必要経費で落ちちゃうんだよ。だから、浅野くんが心配する必要は、まるっきりないんだ」
 にっこりと笑う、清流に、この日だけで、何度、浅野は脱力しただろう。
(なんか、家庭用に品種改良された大型犬に懐かれたって感じだぜ)
 犬に悪気はないのだろうが、力任せの愛情表現に、相手をするほうの飼い主が振り回されて辟易してしまう図というのを思い描いて、浅野は、ナビシートの背凭れに、どったりと背中を預けたのだった。


(成金趣味だな)
 一言で言えば、そうだ。
 金やクリスタルやブロンズや、シャンデリアに絵画、絨毯。下から上まで、いかにも金がかかっています風の豪勢な屋敷に、浅野はあっけにとられていた。
 その横では、清流が、男前度五割アップというくらいのにこやかさで、近づいてくる男女に挨拶を返している。
 たまに、浅野に話題が及ぶと、
「友人です。浅野郁也。お見知りおきください」
と、紹介されるので、浅野も、ぎこちなく笑って見せていた。
「落ち着かないね」
 にっこりと笑う清流に、
「あんた、人気者なんだな」
 なんとなく返したのだが、
「ああ、それは違うよ。人気者なのは、僕じゃなくて、僕の、家や、一族。僕は、あくまで、付属品というか、看板ってとこかな」
 口調に、あれ? と、浅野は首を傾げた。
 ほんの少しだけ、言葉に毒があるように感じたのだ。
 見上げた清流の顔は、あいかわらずにこやかだ。けれど、整った口元に刻まれた微笑が、なんだか、奇妙な引き攣れに見える。
 浅野のまなざしを、清流が意味ありげに、受け止めた。
「ほんと。浅野くんは、案外細かいよね」
「悪かったな。小市民なんだよ」
「そういうとこ……」
「貧乏性だよ。どうせ」
「好きだな」
 するりとつむがれた台詞に、浅野の瞳が、丸くなる。
「は?」
「これからも、おつきあいしてくれると嬉しいな」
「あ、ああ。オレも、籍さんと、友達でいたいけど」
「……………よかった。じゃあ、僕たちは、友達同士だね」
「う、うん」
 なんだよ、この会話。大学生と高校生の会話じゃないだろ。
「じゃあ、手始めに、清流って呼んで」
「せ、清流さん」
「駄目だよ、郁也。“さん”はいらない」
 ちっちっちと、目の前でメトロノームのように人差し指を振られて、
「わかったよ、清流」
 浅野は、腹を括ることにした。
 ようやく、清流に挨拶をするひとたちが途切れ、ふたりは、ブッフェ形式のテーブルを回っていた。
 浅野が皿に取った量を見て、
「小食なんだ。だから、軽いんだよ〜」
「いや。違うって、清流。オレ、こんなとこ初めてだからさ、ちょっと、食べられそうにないだけだって」
「それでもだよ〜。育ち盛りなんだから、取るだけは取っておきなよ。案外入るかも知れないしね」
 それに、枯れ木も山の賑わいって言うだろ。
 ふにゃりと邪気のないような笑顔で、清流が、テーブルからかなりボリュームのありそうな数品を取り分ける。
「いいって。そんな、胸焼けしちまうって。それに、そういうあんたは何だよ。さっきから酒ばっかじゃん。帰り、あんたの運転する車、乗んないからな」
「え〜、じゃあ、どうやって帰るの?」
「タクシーがあんだろ」
「こう見えても、事故ったことないんだよ〜」
「じゃあ、昨日のはなんだよ。あれ、事故だろ?」
「事故かなぁ?」
 首を傾げる清流に、
「ともかくっ! 帰りは、あんたの運転する車にだけは、オレ、乗んないからねっ」
 腕組みをしてそっぽを向いた浅野の耳に、
「では、私の車で送ろうか」
 低い声が、割り込んできた。
「に、兄さん」
 うろたえたような清流の声に、浅野が、振り返る。
 そこには、四十がらみの男が、グラスを片手に佇んでいた。
 それは、清流とは対照的な、知的で厳しい容貌の、他人を威圧する雰囲気を持った男だった。
「珍しいですね。兄さんが、パーティーに出席しているなんて」
「たまにはな。それより、連れが女性じゃないとは、珍しいな。清流。紹介してもらえるのかな」
「あ。はい。友人の、浅野郁也です。郁也、このひとは、僕の兄で、昇紘といいます」
 見下ろしてくる視線のきつさに、浅野の喉がひりりと渇いた。
 忘れていた、タイとベルトの感触を思い出して、浅野の手が、タイとベルトへと、落ち着きなく泳いだ。
「よろしく」
 差し出された手を握り、きつく握りしめられた。
 驚いて見上げた視線の先で、昇紘がその口元に、太い笑みを刻んで見せていた。


「うわっ」
 心臓が痛いほどに喚いている。
 闇の中、目覚めの後の冷ややかな現実が、悪夢を凌駕していた。
「水……」
 闇に、次第に目が慣れてゆく。
 だるさを堪えて、浅野は、ベッドサイドの飾りテーブルに手を伸ばした。
 切子のタンブラーから、グラスにミネラルウォーターを注ぎ、一気に飲み干す。
 こぼれた水滴が、糸を引くように、裸の胸へと伝い落ちる。その感触に、ぶるりと全身が震えた。
「はぁ………」
 浅野のくちびるから、深い溜め息がこぼれ落ちた。

From 10:43 2005/04/13 to 20:54 2005/04/13


2



「えっ?」
 突然のことに、なにが起きたのか、わからなかった。
 ただ、心臓が引き攣りながらも、驚愕したのだと喚き散らしている。
 暗順応した闇の中、闇よりも黒い人影に、ベッドに押さえつけられている自分を、浅野は、痛いくらいに感じていた。
 互いの吐息を感じるほど間近に、黒々とひとの顔の影がある。手は疾うにひとまとめに掴まれ、びくとも動かない。
 ぞわりと、全身がが粟立つ。からだが、恐怖に、情けないほどに震える。
「やめろっ」
 ほのぼのとした夢のなごりが浅野を捕らえていたせいか、からだの反応よりも数瞬遅れて、心が、軋んだ。
 あれは、悪夢でしかない。そう。断ち切られてしまった、記憶の再現だ。
 いや。自分の手で、断ち切ってしまった、過去だ。
 なのに、口から出たのは、
「清流っ」
 今は亡い、友人に、救いを求めていた。
 瞬間、頬に、熱が爆ぜた。
 二度三度と、頬を張られ、頭の芯が朦朧となる。
 クク……と、男の、喉の奥で抑し殺した嗤いが、ジクジクとした頬の痛みを凌駕した。
「殺した男の名前を呼ぶか」
「違うっ」
「なにが違う」
 低い声が、からかうかのように、浅野の耳を通り抜け、脳の奥に、直接響いた。
「違う! オレが殺したんじゃない。清流は…………」
 激しく首を左右に振る浅野の頤が、男の力強い手に、掴まれる。
「そう。弟は、自殺した。……しかし、きっかけを作ったのは、おまえだろう? 違うか、郁也」
「ちがうっ」
 闇の中、闇よりも濃い黒を、必死になって、浅野は睨みつけた。
「……清流は、自殺なんかしない」
 自分が口にしている矛盾を、浅野は、意識してはいない。ただ、己を捕らえつづけている、拭いがたい罪悪感から逃れようと、必死になるばかりだった。
「なら、どうして、弟は、死んだんだ?」
 耳元でねっとりと、男が、面白がっているのを隠しもせずに、訊ねる。
「せ……いりゅうは………」
 男が、浅野の震えを楽しむかのように、頤から離した手で肋の浮いた薄い胸を撫で摩る。気絶するように寝入るまで男に弄られていた浅野のからだは、愛撫に敏感に反応し、ささやかな胸の飾りが、じわりと目覚めた。
「や………」
 湿った感触に息を呑んだ浅野のからだが、竦みあがる。肌の上をぬめるくちづけの執拗さに、浅野は、それまでは揶揄うだけだった男が本気になったのを感じ取った。
「い…や……だっ」
 渾身の力で、両手を縛める男の手を、振り払う。と、ほぼ同時に、
 カシャン――――
 ベッドの上に転がっていたらしい切子のグラスが、払い落とされたらしく、床の上で、派手な音をたてて、砕け散った。


 カシャン――――
「あ……悪い」
 いつもの清流の部屋で、テーブルの上の砂糖壷を転がして、浅野が、焦ったように清流を見上げた。
「大丈夫ですよ」
 胡坐を崩して立ち上がろうとする浅野を制して、清流は、こぼれた砂糖をまとめ、キッチンに立った。ついでに、最近浅野が気に入っているスパイス・ティーを淹れなおす。疾うに香も熱も散ってしまった紅茶を、浅野がさきほど一息に飲み干していたのを思い出したのだ。
 リビングに戻ってきた時、まだ、浅野はぼんやりと、心ここにあらずといった態のままで、清流は、苦笑を隠せなかった。
 元来アウトドアタイプではない浅野の、アジア系にしては白い、象牙めいた頬が、初夏の陽射しに焼けたのか、それとも、興奮の名残なのか、うっすらと上気している。
「まだ、落ち着かないの?」
 湯気の立つスパイス・ティーをそっとテーブルに置いた清流の胸の中に、ざわめきが湧きあがる。
(これって……なんだか、大好きなものを、取られた時のような………。そう。大切でたまらなかった幼馴染にボーイフレンドができた時の、あの感じににてるような)
 清流は、浅野の横に席を移動しながら、首を傾げた。はずみで、開いた襟元の燻したような金の十字架が、鈍く光る。
「え? ……あ。だってさぁ、清流。やっぱ、興奮するよ〜。ほんと、清流が友達で、すっごいラッキーって感じ」
 約束どおり、建造中の飛行機を、清流は見せてくれた。
 フォルムの流麗さや、規模の大きさは、やはり、飛行機好きの清流自身が専門家と何度も打ち合わせを繰り返した結果だろう。勿論、細密な機械部分も、手抜かりがあろうはずもない。人命を預かるものである。たとえ個人所有であろうと、大人数の運搬が目的のものであろうと、そこは、変わりがない。常には見れない部分も、オーナーが『諾』と言えば、仕事に携わるものたちは、『否』とは言えなかった。丁寧に説明してくれる専門家たちに、浅野は、夢中になっていた。それには、専門家達も悪い気はしなかったのだろう。最初は、どこか強張っていた雰囲気も、少しずつ弛み、いつしか、和気藹々と、同好の士の集まりめいたものへと変化していった。
「思いっきり、好きなものを見て触って、それで、いろんなことを教えてもらってさ。こんなすごい一日って、オレ、初めてだよ。サンキューな。清流」
 やっぱり、航空関係の大学に進みたいよなぁ………。パイロット……技師……………管制官もいいな。うん、整備士とか。趣味と実益とが一緒っていうのが理想だし。そんなに好きなら、またおいでって言ってくれたよな。
「かまわない?」
「え? なにが……」
「聞いてなかったんだ」
 ワクワクしていた気分に水をさされたような気がして、浅野が、ほんの少しだけ、膨れっ面をして、隣に座っている清流を見上げた。
「また、あそこ、行ってもかまわないかって」
「そんなことだったら。時間つけて僕が連れて行ってあげる」
「え、いいよ。もうひとりでだって行けるし。ただ、ほら、やっぱり、清流の許可がいるのかなって」
「……ひとりで?」
「だめか? やっぱな。いくら、ジョンソンさんがおいでって言ってくれても……」
「ジョンソンが?」
 いつになく真剣な清流の表情が、目と鼻の先にあった。
 現場責任者のジョンソンは、自分も先頭に立ってからだを動かすタイプの、日焼けした体格のいい男である。
「どうしたんだ?」
 思いも寄らない沈黙に、浅野は、清流の顔をまじまじと見やり、
「眉間に皺が寄ってっ………ぞ?」
 伸ばした手を、清流に掴まれた。
 色素の薄い褐色の瞳が、浅野を凝視している。
  「せい………りゅう?」
 声が掠れるのは、目の前の友人が、突然、見知らぬ何かに変貌を遂げた――そんな恐怖を覚えたからだった。
(オレ、なんか、変なこと言ったか?)
 ぐるぐると、先ほどの会話を反芻する。
 考えれば考えるだけ、浅野は、訳がわからなかった。
「郁也」
 ひずんだような、清流の声が、浅野を呼ぶ。
 据えられたままのまなざしは、まるで、高熱を発しているかのようにきらめき、微塵も揺らがない。
 次第に近づいてくる清流の顔に、ざわざわと、全身がざわめき震える。 
 凝りついたような、痛いほどの緊張感が、浅野を捕らえていた。
 わけがわからないまま、ただ、くちびるに、清流のそれを感じていた。乾いたそれが熱く感じられる。ちろりと、くちびるのあわいをくすぐられ、抉じ開けるように忍び込んできたそれが何なのか。閉じてもいなかった浅野の瞳が、瞬間、弾かれるように瞬いた。
 突然藻掻きはじめた浅野を、清流が床に押し倒す。そのころには、清流の舌は、浅野の口腔を思う存分、味わっていた。少し、スパイスの香がする。女性を押し倒すのとは違う。からだの下の浅野の渾身の抵抗が、心地好く思えて、清流は、長いくちづけを、浅野の耳の付け根に、移した。
 口を開けば、情けない声が出そうで、浅野は、必死に声を殺していた。
 からだが、熱い。首筋を這う、清流のくちびるに、どうしようもないくらい煽られて、おさまりがつかなかった。
「ひゃっ」
 たくしあげられたTシャツの下、ひんやりとした掌が、浅野の胸をまさぐり、撫で摩ったのだ。
「邪魔だね。脱いでしまおうか」
 問いかけの形を借りた断定口調が、それでものんびりとしているのが、やけに耳に残る。
「やっ。なんで……だよっ」
 息を整え、やっと紡いだ言葉は、しかし、清流の耳に届いたのかどうか。
 硬いものが千切れ落ちた音に、浅野のTシャツを脱がしてしまおうとしていた清流の動きが、止まった。
 その好機を(あやま)たず、浅野は、自分の胸を見下ろし息をすることすら忘れてしまったかのような清流の下から、そろりと抜け出したのだ。
 上半身を起こして、浅野は、清流が何を見ているのか、やっと理解した。
 浅野の胸の上、チェーンが千切れたのだろう、清流の首にいつもかかっていた、年代物とわかる金の十字架がぽつんと乗っていた。


 昇紘の劣情に翻弄されながら、浅野の手が、泳いだ。浅野の喉元には、記憶にある金の十字架と寸分たがわぬものがあった。
 アンティークなのだろうそれに、浅野の手が触れる寸前、昇紘の手が素早く伸びた。
「余裕だな」
 自由にさせていた両手をひとまとめに、もう一度ベッドの上に押さえつけ、昇紘が、ささやいた。
 余裕などない。ただ、苦しかった。
 形見だ――――と、無理矢理つけられた十字架のペンダントが、疾うに馴染んだはずのそれが、昇紘に抱かれている時に肌に触れる感触が、浅野の中の罪悪感を夢幻に蘇らせるのだ。
 浅野は、それを昇紘が知っているはずだと、確信している。知っていて、楽しんでいるのだと。
 でなければ、昇紘が、自分にこれを寄越すはずがない。
 これは、清流の、母親の形見だった。清流の母は、カソリックの敬虔な信者だったという。
 カソリック――いや、おそらくはキリスト教全般で、男同士のこういう関係が禁じられていることを、浅野ですら、聞いた記憶があった。あの日、清流が、動きを止めたのは、偶然とはいえ千切れたクルスに、母親を思い出したからなのかもしれなかった。
 これは、清流が死んだ時、彼の血に、染まっていた。
 見つけたのは、浅野だった。
 違う。
 浅野の目の前で、清流は、死んだのだ。
 冷たくなってゆく、清流のからだの感触が、床に広がってゆく血潮の質感が、記憶の奥底からにじみ出る。
 グゥ―――と、浅野の喉が鳴った。
 突然の過呼吸の発作に、浅野の全身が、じっとりと冷たく湿り、震える。
 息が苦しい。
 喉を掻き毟りたい衝動を、幸か不幸か、昇紘の手が、抑え込んでいる。
 霞む視界に、自分を覗き込んでくる昇紘の顔が、いっぱいに映し出された。
 昇紘のくちびるに口を塞がれたのを最後に、浅野は、意識を失ったのだった。
 
From 19:22 2005/04/15 to 15:58 2005/04/17


3



 重厚なカーテンが開けられる音に、浅野は、ベッドの中で小さくなった。
 眩しい陽射しが、室内に差し込む。窓に向けた背中が、上掛け越しにほんのりと、あたたまる。
 窓が開けられ、昨夜の名残の澱んだ空気が、入れ替わってゆく。
 既に、隣に昇紘の気配は、ない。
 二、三日ここにいるようなことを、昨日来たばかりの時、昇紘は言ってなかっただろうか。
 いや――と、浅野は、首を振った。
 いないほうが、いい。きっと、自分の記憶違いか、忙しい男のことだ、携帯に連絡が入ったのだろう。
 ともあれ、朝一番に昇紘の顔を見ずにすんだことに吐息を吐きながら、浅野は、上掛けを、頭まで被った。と、浅野の耳に小さくて硬いものが擦れあうような音が届いた。
 チャリチャリと音がするのは、なんだろう。そっと気をつけながら確認すれば、朝日を弾くガラスの欠片を、この療養所で自分の世話係を務めてくれている某が、集めているところだった。―――そういえば、と、浅野は、昨夜、グラスが割れるような音を聞いたことを思い出した。
 いつもなら、浅野は、某が朝食の用意を整えて出てゆくのを、全身を硬くして待ち構えている。
 外に気づいたあの日、浅野は、カーテンを開けさせないでほしいと、昇紘に頼んだのだ。ここのオーナーである彼の言葉なら、伝わるだろうという一縷の望みは、しかし、叶いはしなかった。
 昇紘は、澱んだ空気が許せないというのだ。
 自分は、気まぐれにこの療養所――昇紘が持ち主なのだそうだ。だから、浅野は、ここでは、特別待遇なのだそうだが、特別待遇という言葉には、昇紘が浅野を抱くということも、暗黙裡に含まれているということを、浅野は、知っている。――を訊ねて来て、気まぐれに帰るだけである。なのに、浅野の病室に充てられている、高級ホテルのスウィートも色あせそうな特別室の空気が換気されていないことが、気に障るらしい。
 クーラーも当然のようにあるというのに、頑なに、空気の入れ替えに固執するのは、パラノイアックな性格の一端なのだろうか。単に、潔癖症というだけのことなのか。それとも、クーラーはからだに悪いと、気遣ってくれてでもいるのか、浅野には、いまだに、よくわからない。
 もっとも、浅野は、実は、窓などはどうでもいい。とにかく、カーテンさえ閉めていてくれれば、それでいいのだ。しかし、それすら、昇紘は、許可しない。だから、浅野は、いつも、見たくもないものを見るのを知っていながら、某が部屋から出て行ったのを確認して、カーテンを閉めるのが習慣になっていた。どうせ、食事の後片付けをしに来た某が、また開けるのはわかりきっているが、そうでなければ、診察に来た医者が看護士に命じて開けさせるだろうが、本当は浅野のほうこそが、ある種のパラノイア的な固執でもって、カーテンを閉めることを止められないでいるのだった。
 素早く起きて、さっさとことを済ませてしまいたい。しかし、昨夜の情事のせいで、からだは、のろのろとしか動けない。おかげで、どうしても、見たくないものを、見る羽目になる。それを、目覚めのたびに、覚悟しないわけにはゆかなかった。
 窓の外一面の芥子の花を、見たくない。もちろん、観賞用の芥子なのだろう。
 違う。
 花の種類は、芥子だろうがなんだろうが、かまいはしない。ただ、花の色が、厭でたまらない。ぞっと、背中に寒気が走るのだ。
 窓の外、はかなげに揺れる芥子のはなびらは、何の変哲もない、赤だった。
 薄いはなびらの群が、まるで、あの日、清流が流した血潮のようで。壁一面を占める窓の外、微風に揺れては、血の溜まりを思い出させる。また、突然の雨に濡れては、力なく絶えた清流の姿を思い出させるのだ。いやでも目に入ってくる罪のない繊細な花の群が、そうやって、浅野の罪の意識を責め苛む。
「せいりゅう………」
 早く散ってしまえ――――と、浅野は、芥子の花を、呪う。庭一面の芥子の花畑は、一輪が散っても、また次の一輪が花開き、永遠に絶えることを知らないかのようで、禍々しすぎる。特別待遇というのなら、この庭の花を全部白、白じゃなくても赤でさえなければいいから、何か他の色に変えてくれ――と、浅野は、プライドを捨てて昇紘にねだったことすらある。しかし、なにを考えているのかわからないあの男は、鼻先で、浅野の必死の懇願を、切って捨てたのだった。
「清流――――」
 赤い花が、揺れている。
 赤は、清流の血の色。
 あの日、大理石の床の上に、とろりと溜まり広がった、赤。
 カーテンを握る浅野の手が、震えていた。
 首が重い。
 ああ、貧血だ―――と、他人事のように感じていた。過呼吸の発作よりも、遙かにましだなどと、頭の片隅で考えている自分がいる。
 横になりたかったが、カーテンから手を放せば、多分、倒れてしまうだろう。
 全身に、まるで、通常の重力の何倍もの重圧がかかっているかのようだった。
 したたり流れる脂汗の感触を、不快なものに感じながら、浅野は、カーテンを握る手はそのままに、膝を折ってゆく。あと少しで、膝がつく。
 いったいなにが、いけなかったのだろう。
 清流を受け入れれば、よかったのだろうか?
 けれど―――。
 そう、今の自分のざまを重々承知のうえで、けれど――と言葉を繋ぐのは愚かしいことかもしれない。けれど、自分には、決して、同性を好きになるような性癖などない。
 だから、突然豹変した友人のあの行動を罵らなかっただけでも、自分をほめてやりたいくらいだったのだ。
 しかし、清流には、そのこと自体が、罵声よりも、衝撃的だったのだろうか。
 ぐらぐらと今にももげてしまいそうに重怠く痛い首を、支えるのを、諦めて、カーテンを握っていないほうの手を、床に伸ばした。
 閉じている視界に、何故か、青い光が花のような輪になって広がっていた。
 指先が、床につき、ホッと、息をついた瞬間、カーテンを握りしめていた手から、力が抜けた。
 鈍い音がたった。
 頭を打たなかっただけまし――と、肩で息をしながら、浅野は、思った。


『アサノ』
 名を呼ばれて、ぼんやりとノートの上に落書きをしていた浅野は、顔をあげた。
 ガタガタと音をたてながら引っ張り出した隣の席の椅子に腰を下ろしたのは、褐色の肌の、少年だ。
『ああ……ポゥか』
『いくら週明けだからって、その呆け具合はどうかと思うぞ』
『ほっとけって』
『なぁ、アサノ。聞こうと思ってたんだけど、いいか?』
『なんだ?』
 ぽしぽしと顎をかきながら、タイ系の少年は、
『おまえ、籍の次男坊とどんな関係なんだ?』
 思いも寄らないことに、瞬間、浅野の頭が真っ白になる。
『は?』
『いや、籍清流だよ。籍の次男だけど、次期大君(たいくん)って噂がある』
『ふぅん』
『ふぅんって、おまえ、知らないのか?』
『いや、知る知らないったって、単なる友達ってだけだしさ』
 まぁ、それも、昨日まで――だよな。清流のばっかやろうっ!
 昨夜一晩かけてどうにか宥めた怒りが、再び頭をもたげかけた。
『それにしても、なんだって、そんなこと聞くんだ?』
 首を傾げた浅野に、
『単なる興味本位なんだけどさ。いや、だって、校門まで日本人の学生を迎えに来る籍のぼんって最近、学校では滅茶苦茶噂になってたんだぞ。あのタラシって評判のぼんが、女じゃなくって男をほぼ連日のお迎えじゃ、仕方ないけどさ。あの日本人はなんなんだって…………おまえ、この国での籍の影響力を知らないのか?』
『知らない。っつーか、オレにはどうでもいいことだしさ』
『あぶないな、それ』
『なんでよ』
『まったく関係ないんなら、それでもいいけどさぁ……少しでも関係あると、こじれたら厄介だぞ』
『厄介?』
 ざわざわと、イヤな感じがする。
『詳しくなんて、怖くて言えないけどさ。籍には決して睨まれるな――って、この国じゃ…いやともかく、首都にいて知らないヤツはまずいないと思う。それくらいの影響力があるってことだ』
『えと、下手な政治家よか力があるって、そういうことか?』
『目じゃない』
 影のフィクサーとかそんなのか?
 ぐりぐりと浅野の頭の中で回るのは、劇画系の漫画とか、オリジナルビデオとか、ヤクザ映画とかだった。
 こじれたら厄介って……いくらなんでも、あれが原因で、オヤジが首になったりするのがアリ? いや、まさか、な。いくらなんでも、清流は、んなことするヤツじゃないよな。
 ともかく昨日の清流はどうかしていたのだ。そうに違いない。
 あんなことをされて、腹は立つが、清流のことは嫌いじゃない。悔しいと思いはするが、清流が謝りに来れば、許してしまうだろう。そう、ただ、清流が、来るかどうか、それはわからないけれど。
 いざ顔を合わせたとして、口を利けるかどうか、自分でも、わからないけれど、それでも、多分、自分は、許すのに違いない。
 友達として、清流が、好きだからだ。
 けれど、清流が、来なければ、それまでなのだ。自分から会いに行くつもりはない。なにを理由に、会いに行けるというのか、それが、浅野にはわからないのだ。そう、昨日のことなどなかった振りをして、友達として会いに行けばいいとでも? それは、まだ、不安だった。だから、浅野としては、昨日の今日で、顔を見たくはなかったが、清流に謝りに来て欲しかった。そうすれば、きっと、元通りの友達に戻れると、浅野は信じて疑ってはいなかったのである。
「はぁ………」
 陽射しのきつさに街路樹の下を選んで歩きながら、浅野は、ため息をついた。本人が意識していない溜め息は、重々しく、湿度を含んで、その場に転がり落ちるかのようだ。まるで、浅野の歩いてきた場所には、溜め息が落ちていそうな、そんな、雰囲気だった。
 突然、空が翳った。
「ああ……スコールか」
 駆け出す気力もなく、浅野は、街路樹の下で、雨宿りを決め込んだ。
 薄っぺらいカバンを頭の上にかざす。
 街路樹の根元を避けて敷かれているレンガが、雨を吸って、黒く変色してゆく。
 ぼんやりと、浅野は、空を見上げた。
 その時、視界を通り過ぎようとしていた一台の車が、浅野の目を奪った。
 何の変哲もない、黒のベンツである。
 ナンバープレートを確認して、たちまち浅野の興味が、殺がれた。
 と、ブレーキの音もなく、ベンツが浅野の少し向こうで停まり、バックしてくる。
(まさか)
 半ば不安、半ば期待の相反するものを表情に滲ませて、浅野は車を見守った。
 音もなく停まったベンツの、後部座席のドアが、開いた。
「!」
 浅野の目が、大きく見開かれた。
 姿を現したのは、
「久しぶり。浅野くん、だったね」
「せ……き、さん」
 清流の兄、昇紘だった。
 清流に連れて行かれたパーティーの席上で、以前、一度だけ会ったことがあった。
 スコールではなかったのか、雨はまだ止まない。
 衰える気色を見せない雨足に、昇紘の表情がよくは見えなかった。
「乗りたまえ、送らせよう」
「いや…オレは………」
 差し出された手に、浅野は、躊躇う。
 よく知らない相手に、送られることもない。地下鉄の駅は、そう遠くない。家は、地下鉄で一区間だ。
 しかし、断ろうと、今度はキッパリと口を開こうとした浅野に、
「清流のことで、話がある」
「清流がどうかしたのか」
 焦った浅野は、
「ここでは少々なんなのでね。乗りたまえ」
 昇紘の鋼色の双眸が、宿すものに、気づかなかった。
 勧められるままに、浅野は、ベンツに、乗り込んだのだ。
「やれ」
 昇紘の一声に、ベンツは、するすると動き出した。


 思い出すな。
 イヤだ……。
 この先に進むんじゃない。
 夢を見ているという自覚があった。しかし、夢は、自分の意のままになろうともしない。
 ただ、淡々と、残酷なまでに、頑ななまでに、過去を再現しようとする。
 こんなことにはなんの意味もない。
 バカやろうっ!
 起きちまえっ!
 自分で自分を罵り、喚く。
 その甲斐のない重苦しさは、しかし、少しも、目覚めの役に立ちはしなかった。


 中国風の広大な屋敷の奥に通されて、浅野は、昇紘と向かい合っていた。
 応接室のひとつだろう、案外こじんまりとした広さの室内は、黒檀だの螺鈿だの青磁や白磁などで、飾られている。
 座り心地のよさよりも伝統のほうを重視しているのか、ほぼ直角の背凭れのついた椅子に腰を掛けて、浅野は、居心地悪く、昇紘と、テーブルの上を、見比べていた。漆塗りのテーブルの上には、点心とジャスミン茶が出されている。
 浅野をしばらく待たせてから現われた昇紘は、昔の中国物の映画でしか見たことがないような、中国の服装をしていた。スタンドカラーで丈の膝まではあるゆったりとした上着と、ズボンという姿だ。
 手付かずで冷めてしまった点心に気づいた昇紘が使用人に取り替えさせた、湯気が立っているものを食べろと勧められて、断る時期を逸した浅野は、小皿に手近にあったものを取って、口をつけた。
 熱くてやたらに甘い中味がどろりと口の中にあふれ出てきて、慌てて、茶碗に手を伸ばす。
 濃い花の香のする冷えた茶が、口の中の熱と強い甘味を洗い流してゆく。
 ほっと一息ついた浅野に、昇紘は、清流の様子がおかしいのだがと、きりだしたのだった。
 なんでも、昨夜は、断れない会合があったというのに、清流は現われず、携帯も受けようとはしない。埒が明かないと、昇紘が自分で、清流のアパートを訪ねると、誰にも合いたくない――のだと、使用人が恐る恐る答えるばかりだったそうだ。
「昨日は、君があれを訪ねてたそうだね。一緒にどこかに行った帰りだったそうだが」
「え? あ、ああ。昨日は、建設中のジャンボを見せてもらって、その帰りに、上がってけって言うから……」
 その後なにが起きたのかまでを思い出しかけて、浅野の声が小さくなって、口の中に消えた。
「それで、なにかな、喧嘩でも?」
 あれが、変になったのは、君が帰った後からだそうだ。
「なにがあったのか、教えてはもらえないか」
 いつの間にか、浅野は、椅子から立ち上がって、首を横に振っていた。
「いや、オレは、なんにも、知らないし……」
「知らない?」
 その様子のどこが、だね?
 喉の奥で、昇紘が笑う。
「とにかく、オレ、知らないから。だからっ、これで、失礼します………」
 カバンを取ろうとした瞬間だった。
「えっ………」
 目の前が、歪む。
 色彩が入り混じって、吐き気すらこみあげてくる。
「……な、んか……………」
 くらくらと、視界が回る。
 視界の中で、昇紘の厳しい表情が、ぐにゃりと飴細工のように、伸びて見えた。

From 14:42 2005/04/25 to 15:13 2005/04/28

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