夏 翳  2







4



 どうして、今更、こんなっ!
 思い出したくもない、昇紘との最初が、繰り広げられてゆく。
 意識を閉ざしてしまいたいのに、夢は、自分の意のままになりはしない。
 ただ、つらいばかりだった、あの感触は、今も、さして変わりはしない。
 相手を拒み通そうとからだが竦みあがっても、結局は、受け入れさせられてしまう、あの、灼熱の苦痛を、どうすればいいのだろう。
 わからないままに、翻弄されて、息も絶え絶えに、いつ解放されたのかも、浅野は覚えてはいなかった。
 記憶に残っているのは、気づいた後の、からだの痛みと、精神的な衝撃ばかりで、最中に、昇紘に何を言われたかなど覚えてはいないと、そう、思っていた。しかし――――――


 喉の奥で噛み殺される、独特の含み笑い。
「ここ…と………ああ、ここにもある。……あの清流を、よくもここまで、誑しこめたものだ」
 指がたどるラインが、なにを意味しているのか思い出して、浅野の全身が、熱をはらむ。
 昨日、清流のくちびるが触れた場所だった。
 まさか……と、今更ながらに、羞恥が芽生える。
 飛び起きようとして、浅野は、全身が、動かないことに気づいた。
 そうして、自分が、どんな状況にあるのかにも、やっと、気づいたのだった。
 黒い衝立に施されている花鳥風月の象嵌が、うっすらと、夕方の陽射しを透かしている。その裏側に、浅野は、仰向けに転がされていた。窓側からの陽射しに、天井の花の絵が、やけに重々しく感じられた。背中の感触から考えると、とりあえず、寝台にいるらしい。しかし、なぜ、横に、昇紘がいるのか。自身手枕して横臥するという格好で、いったい、なにを、しているのだろう。
 ぼんやりと、浅野は、昇紘を、見ていた。
 その視線に気づいたのに違いない。昇紘は、何の前ぶれもなく浅野の目を覗き込み、太い笑いを口角に刻んだ。
「あれの手管から、よく、逃げられたものだ」
 女相手に遠慮はしないのだがな……。やはり、相手が男となると、違うものか。
 含み笑いが、耳にうるさい。
「やめろ……」
 手枕とは逆のほうの手が、自分のからだの上を直に、撫で摩っていることに気づいて、浅野は、首を振ったつもりだった。
 しかし、からだは、やはり、動かない。なんとか、昇紘の手から離れたいと、必死に藻掻いている間にも、昇紘の手は、浅野のからだのあちこちを、弄っている。
 次第に、からだのあちこちに灯った熱が、一か所に収斂してゆくような、身も世もない感覚があった。
 焦りが、不安が、不快が、浅野を捕らえていた。
 熱が、涙を誘発する。
 恥ずかしかった。
 悔しかった。
 怖くてならなかった。
「な……んで……………」
「なぜ――か」
 ふっと、昇紘の頬が弛んだ気配があった。
「そうだな…とりあえず、おまえは、私のものだと、そういうことだ」
「!」
 悲鳴をあげる間もなかった。
 瞬きをするよりも素早く、昇紘の顔が、浅野の吐息を掠め取るくらい近くにあった。
 そうして、頭を左右から固定された。少し顔が遠ざかったと思えば、にやり――と、笑う。そのなんともいえない表情に、浅野の全身が、鳥肌立った。
 いやだ―――そのひとことが、紡げない。紡いだところで甲斐がないだろうことは、本能的に察してはいたが、それでも、せめてもの抵抗を、したかったのだ。
 顔を背けることすら許されない。――否、できないでいる屈辱に、せめてもと、浅野が、目を閉じようとした。
「閉じたところで、これから起きることは、変わらぬぞ」
 嘲るような口調に、浅野は、頑なに、瞼を閉ざす。できることなら、耳も塞いでしまいたい。なにより、この場から、消えてしまいたかった。
「まぁ、いいだろう」
 昇紘がそう独り語ちたとき、浅野は、室内の空気がゆらめいたのを感じたような気がした。しかし、浅野は、それを、無視した。
 皮膚感覚が、昇紘の顔が、近づいてきたことを、教えてくる。
「いや……だっ」
 やっとのことで、迸り出た拒絶の言葉は、悲鳴じみて、浅野の耳に届いた。
「逃がしはしない」
 ぞっと逆毛立つほどの、欲望を押し殺した声と共に、昇紘の熱くぬめるくちびるが押し当てられた。

 悪夢のはじまりは、こうして幕を開けたのだ。

 目の前に差し出されたものに、気が遠くなる。
 それではいけないと、条件反射で、昇紘の手の中にあるものを、浅野は、奪い取った。たったそれだけの動きで、全身は痛みを訴えたが、それよりも、手の中で握りつぶす音が、やけに気に障ってならなかった。
   起きることすら覚束ないまま、見たくもない顔を睨み上げる。
 きついまなざしが、自分を見下ろしているのに、顔を背けたかった。
 しかし、ここで、顔を背けたら、負けな気がした。
「存外、気が強い」
 面白そうに、昇紘が、笑う。
 罵りたかった。
 しかし、声は、掠れ、引き攣るように喉が痛む。
 屈辱に震える全身が、だるくて、痛い。
 なんでこんな目にあわないといけないんだ。
「あく、しゅみ……だ」
 咳きこみながら、どうにか、それだけを、吐いて捨てることができた。
  「意外によく撮れていると、そうは思わないかね」
 もう一枚差し出されて、浅野の視線が泳ぐ。
 目の前にあるのは、一葉の写真。そこに映し出されているのは、先ほどとは違うショットの自分だった。
「要らないのか」
 ひらひらと、まるで猫をじゃらすかのように揺らされている写真を、手を伸ばして奪い取る気力すら、なかった。どうせ、まだ持っているのに違いない。
「な……んで」
 それよりも、何故、そんなものを撮ったのか。その理由のほうが気にかかった。
「おまえが、私から、逃げないように――といったところか」
 逃げようとすれば、ばら撒く。
 真っ青になった浅野に、
「陳腐な手法のほうが、目的を果たすには、確実だ――と、そうは、思わないかね」
 昇紘がうそぶいた。
 昇紘が懐にしまいこんだ写真の中では、浅野が、いまだ、昇紘に翻弄されつづけている。
 しかし、
「おまえは、私のものだ。どんな手段を使っても、逃がしはしない」
 現実の浅野もまた、昇紘に翻弄されているのは、変わらない。
 呆然と、ただ、見たくもない男の顔を見上げている浅野の両の瞼にもりあがった涙が、ゆっくりと目を閉じた瞬間に、目尻を伝って、布団を濡らした。


「なんか、おまえ、雰囲気変わったよな」
 帰りたくなくて、うだうだと時間を食いつぶしていた放課後の教室で、ポゥが、浅野の顔を覗きこんだ。
「そうか?」
 内心ぎくりとしながらも首を傾げた浅野に、
「なんか、あったのか? 妙に色っぽくなった気がする」
 ポゥが真面目な顔をしてそう言った。
 浅野の心臓が、びくびくと、うろたえる。
「それ、ポゥに言われても、あんま、うれしかないよな」
 机にへばりつきながら、浅野は、動揺を押し隠した。
「じゃ、誰に言われたいんだ?」
「そりゃ、わかってるじゃん。きれいなおねーさんとか、女の子に言われたいって」
 上目遣いにそう言って、浅野は、顔を上げた。
 あれから、五日が過ぎた。
 からだの辛さは、どうにか、癒えた。心のほうは、これから、少しずつ、薄れてゆくだろう。まだ、似たような体格の男を見かけると、からだが、竦むし逃げたくなるが、それは、記憶が薄れてゆけば、きっと、治るにちがいない。
 一度も、昇紘と会っていない。清流から、連絡もない。
 きっと、あれは、金持ちの気まぐれ、単なるお遊びだったんだ。そんな風に、浅野は、思うことに決めた。
 もてあそばれた自分が、可哀想だった、腹が立つよりも、怖かった。それでも、済んだことだと、忘れようと、決意した。
 きっと、日本人が珍しかったのだろう。毛色の変わったのが、どんな反応をするのか、興味があっただけなのだ。だから、もう、気が済んだにちがいない。元々、オレとは、関係ないヤツらだったんだ。
 清流のことは、少しだけ気にかかったが、それも、もう、終わったこと。いつまでも、引きずってたって、仕方がない。
 相談する相手もいない、いても、相談できることじゃない。そんな問題を、自分なりにここまで、整理した。それだけでも、自分を褒めていいくらいだ。
 オレだって、やればできる。
「帰るか……な」
「あ、じゃあオレも一緒に。いいか?」
「ああ。いいぜ」
 浅野は、カバンを持って、席を立った。
 ゲームやら漫画やら、そろそろ試験があるとか、他愛のないことを喋ってると、あれは、なかったのだと思えてくる。
「夏休み予定があるか?」
 訊かれて、首を傾げる。
「いや。別に、ないと思う。ポゥは、どうするんだ」
「毎年、夏は、カナダの別荘だ。ここの暑さは、冗談じゃないくらいだからな」
「おまえん家も、金持ちだったな、そういや」
 空を見上げた。
 眩しい。
「招待するけど、こないか」
「いいのか?」
「ああ」
「あ、オヤジに聞いてみないとな。許可が下りたら、ヨロシクたのむ」
「おう」
 笑いながら門を抜けた時だった。
「おい」
 ポゥが、浅野の脇腹をこついた。
「なんだ?」
 ポゥの示す先を見て、浅野の足が、止まった。
 全身に震えがくる。
 なんで。
 やばい。
 暑さから出る汗じゃなく、精神的な脂汗が、じわりと、にじみ出る。
 目が、足が、縫いつけられたように、動かない。
「あれ、籍の」
 ポゥの指差す方向に、浅野は、記憶にある車を見つけたのだ。
 そうして、車から降りた男が浅野に近づいてくるのを、ただ、凝視していた。
「どうした、アサノ?」
 首を左右に振りながら、ようやくのことで、一歩後退さった浅野を、妙な顔をしたポゥが見ていた。しかし、取り繕う余裕は、飛んでしまっている。
「オ、オレ……」
 イヤだ。
 近づいてくるのは、清流だ。なのに、なぜ、こんなに怖いのだろう。全身が、鳥肌立つのだろう。
 拒絶が、声にならない。
 なんで、これ以上、動けないんだ。動けって。
 自分で自分を叱咤する。
 動いてくれってば!
 自分は、泣きそうな顔をしているにちがいない。
「郁也」
 いつもののほほんとした声とは違う、強張った声が、清流の薄いくちびるから飛び出す。
 なんで、そんなに、怖い顔してるんだ。
 なんで、
「い、痛いっ」
 腕を掴む手が、きついんだ。
「イヤだ、離せって」
 ぞっと、全身を駆け抜けた怖気を、なかったことに誤魔化せない。
 振り払おうと、闇雲に暴れるが、それがなおさら清流を煽るのか、力は強くなる一方だった。
「郁也、話がある」
 ほとんど恐慌状態にある浅野を鑑みることなく、清流は、浅野の目を覗きこんだ。それが、まだ記憶に生々しい昇紘とのやり取りを思い出させる。どこにも似たところはないと、そう思っていたのに、どうして、清流と昇紘とが、重なって見えるのだろう。やはり、兄弟なのだ。
「オ、オレには、ないっ」
 ダメだ。
 このままでは、引きずられてしまう。
 清流に何を言うかわからない。
 ただでさえ、今の自分は、清流に変に思われているはずなのだ。
 落ち着け。
 落ち着くんだ。
 喘ぐように、数度、深呼吸を繰り返す。
「せ、いりゅう……悪い。別の日じゃ、ダメか?」
 頼む。かまわないと、そう、答えてくれ。
 祈りは、しかし、
「ダメだ。今、おまえに用がある」
 そのイントネーションが、浅野を、絶望へと、追いやった。
「っ!」
「郁也」
「い、イヤだ……」
 首を左右に振る。
「昇紘っ」
 自分が口走った名前に、浅野は気づいてはいなかった。ただ、突然動きを止めた清流に、息をついた。わかってくれたのか、と、見上げた先に、眉間に深い皺を刻み込んだ清流の顔があった。

From 15:45 2005/04/29 to 14:25 2005/05/19





5



 運転手つきの黒の高級車。その後部座席に、浅野は清流と向かい合って座っていた。
 膝の上で握りしめた手を、浅野は睨みつけている。
 全身が小刻みに震えるのを、こらえるすべはなかった。 
 いったい、何の用なのだろう。
 清流の視線のきつさは、何故なのか。
 おびえてしまう自分が情けなくて、こんなにも自分をおびえさせる清流が、憎くなる。それでも、嫌ってしまえない。そんな自分の感情が不思議でならなかった。
 嫌ってしまえれば、きっと、ここに自分はいない。ポゥと、帰っていただろう。
「飲むといい」
 以前のぽやんとした雰囲気はどこに消えたのか。いかにもできる男といった風情の清流が、目の前にいる。
「シャンパンだ」
 細かな気泡が、透明なフルートグラスの中で水面を目指している。浅野はといえば、清流が何を目指しているのか、まったくわからないままだ。
首を振るだけで、意思表示に換えた浅野に、苛立たしげに舌打ちさえして、清流がグラスを無理矢理握らせる。それでも飲もうとしない浅野に、清流が強硬手段に出た。
 強引に口を開かされ、流し込まれたシャンパンに、浅野が咽る。
 飲みきれなかった、薄く金をにじませる液体が、浅野の喉もとをしたたり、白いカッターシャツの襟元を、濡らした。
 生理的にあふれ出た涙を拭いながら、どうにか治まった咳き込みに、浅野が、ほっと息をつく。
「無理に飲ませること……」
 ないだろう――――と、そうつづけようと見上げた視線の先に、無表情に自分を見下ろしている白い顔があった。しかし、仮面のように整った顔の中、そこだけがまるで生身なのだとでもういうかのようなその色の薄い瞳に揺らいでいるものを、浅野は、知っていた。
 あの日の清流自身を、そうして、また別のあの日の昇紘を、思い出させるそのまなざしに、ゾッと、全身が、震える。ふたたび涙がにじみ出す。ガンガンと、鼓動が耳のすぐ奥で聞こえる。背中を流れ落ちる冷や汗に、からだの熱が、奪われていた。
 膝に顔を伏せた浅野の顎を、手入れの行き届いた清流の手が、捉え、持ち上げる。
 閉ざすことを忘れた目のすぐ先に、琥珀めいた瞳が、迫っていた。
「なんで」
 顔を背けようと、清流の胸元に突っ張った手が、いとも容易く、束ね取られる。
「いやだっ。オレはっ………もうっ、あんなこと、いやなんだっ」
 それは、根をかぎりの叫びだった。しかし、
「あんなこと?」
 冷静すぎる清流の声に、浅野は、息が止まったかのような錯覚を覚えた。
「あんなことって、なんです? ああ。あの日、僕がしたこと? それとも」
 一呼吸区切って、清流は、浅野の顎から、手を離した。そうして、懐を探り、取り出したものを、浅野の目の前に、差し出した。
「これのこと?」
 今度こそ、本当に息が止まった――と、浅野は、思った。
 いっそ、そのほうがましだとも。
 なぜなら、目の前に差し出されたそれは、あの日、昇紘に見せられた写真の別のショットだからだ。
 見たくもない情景が、そこには、切り取られている。
 ただ仰臥しているだけの写真だったが、おそらくは、誰が見ても、情事直後だとわかるだろう。望んだことですらないというのに、汗をかいてぬめるような肌は、赤く染まり、髪の毛が頬に額に、貼りついている。髪の毛の間から覗くうつろなまなざしと、だらしなく開いた口もととは、表情を信じられないくらいに、いやらしいものにしていた。そうして、首から下の、生々しさは、おぞましさをすら駆り立てずにはおかない――ように、浅野には思えたのだ。
 なのに、
「誰が撮ったのか知りませんが、かなり腕のいいプロでしょうね。なかなかいい仕事ですよ。ええ。怒りを忘れるほどに、ここに写っている君は、色っぽい。おかげで、ようやくおさまったかと思えた僕の劣情は、再び、掻きたてられました」
 低く抑えた口調で、清流は、そう言った。
「これを見るまではね、もとの友人でもかまわない。そう、考えるまでに自分を諌めることがどうにかできていたのですよ。君と一緒にいるだけで、なぜなのか、自分でもわからないくらいに、楽しいのですから、そこに苦しいことが少々混じったくらいで、君という友人を失うことなどできない。そう、結論を出しました。けれど、写真が、郵便物として届けられたのです。……ええ、最初こそ、悪質な悪戯だと、そう、思って、その写真は破り捨てました。けれど、次の日もまた、別の写真が届けられた。三日、つづきました。さすがに、僕も、半信半疑になりましたよ。だから、真偽を確かめたくて、僕は、探偵に頼みました。君の相手を探るのに……いえ、真実かどうかを確かめるまで、今日までかかりました」
 止まったと思えた、心臓が、脈を刻む。それも、激しいくらいに。まるで、からだの内側から、清流に殴られてでもいるかのようだった。
「なぜ、と、お返ししても、いいですよね。なぜ、兄に、抱かれたのです」

From 9:23 2005/05/30 to 22:02 2005/06/12


6




 なぜ?
 なぜ、昇紘に、抱かれたか―――?
 浅野は、耳を疑った。身内からの震えに揺れる視界の中、自分を見据えている清流の顔を、見返す。
 しん――と、背中が、冷えるような錯覚がある。
 清流は、オレが、自分から、昇紘に抱かれたと、そう、思っているのだろうか。
 コトリ―――、発条(ぜんまい)がもどけきったカラクリ細工のように、乱暴なまでに暴れていた浅野の鼓動が、ほんの刹那だけ、音たてて止まった。
「本気……で?」
 自分でも信じられないくらいの低い声が、浅野のくちびるを割っていた。
 目が、据わっているのが、自分でもわかる。
「オレが、それを、望んだと、そう、本気で…………」
 こんな声が、自分のものだとは、思えない。
「兄は、これまで、男に興味を持ったことは、ないんですよ」
 じゃあ、おまえは前から男に興味を持ってたのかよ――と、突っ込む気力もなかった。
「そうかよ」
 反論するのも、ばかばかしい。そんな気がして、浅野は、シートに背中をあずけ、目を閉じた。
 今、自分がどこにいるのかも、自分を見下ろしてくる友人の顔も、用件も、全てを、意識の外に締め出したかった。
 こんな国、来るんじゃなかった。
 清流となんか、知り合わなければよかった。あのスコールの日、ずぶ濡れになったのを嫌がらず、さっさと家に帰ってればよかったのだ。家に帰って誰もいないことなんか、慣れていたはずなのに、日の浅い外国暮らしに、ひと恋しかったのだろう。帰っていれば、昇紘と知り合うことも、なかったのだ。あんな目に合うことも、こんな状況に身をおくことも、なかったのに違いない。
 ただ、そう、思うばかりだった。
 オレって、ひとを見る目、ないんだな。苦い思いに、自嘲する。
 皮膚感覚が、目を開けろと注意を促したのは、その時だった。
 視界いっぱいのそれが、清流の顔なのだと、認識した時には、既に、浅野は、清流のくちびるを押し当てられていた。
 もがいても、あがいても、清流を押しのけることはができず、浅野の全身を、鳥肌立つような恐怖が捕らえた。
 高級車の革のシートは、必要以上に柔らかく、上から押さえつけられている浅野野からだを、つつみこむ。
「イヤだっ」
 いつかのように、清流の、くちびるが、浅野の首筋に移動する。
 からだの上をするすると這いずる清流の手が、布越しに厭でも感じてしまう清流の熱が、浅野に、五日前のあの体験を、思い出させた。
「イヤだっ」
 これは、誰だ。
 こいつは、なんだって、こんなことを、オレにするんだ。
「誰か……誰かっ」
 あるはずのない救いを求めて伸ばした手を、握りしめ、清流が、はだけたシャツの胸元から顔を上げた。
「郁也………」
 さきほどまでの激情が嘘のようなと、目を疑わずにはいられない、清流の切なげな表情も、
「愛しています」
 耳を疑うばかりのささやきさえも、浅野には、
「嘘だっ」
としか、思えなかった。
 オレのことを、信じてもいないくせに、なんで、オレを愛してるなんて、口にできるんだ………。
「嘘じゃない」
 嘘じゃなければ、なんだっていうんだ。
 こんなことをしても、かまわないと言うつもりなんだろうか。
  「嘘つきっ」
 浅野が叫んだ時、車が、かすかな振動をたてて、止まった。
「オレは、おまえがオレのこと好きだなんて、絶対に」
 渾身の力で、浅野は、清流を、押しのけた。
「絶対に、信じないからなっ! おまえも、昇紘も、オレのことダシにして、遊んでるだけなんだっ!」
 今、この場で、昇紘の名前を出したことが、清流の逆鱗に触れるだなどと、浅野は、考えてもいなかった。
 ただやみくもに、ドアを開けようと伸ばした手が、清流に掴まれる。
「はなせっ」
 車から引きずり出されて、清流の部屋まで直通のエレベーターに押し込められる。
 壁際に縫い止められて、浅野は、清流を見上げていた。
「郁也が、たとえ、兄を好きでも、かまわないことにします」
 どこをどう筋道立てれば、そういう結論になるのか、浅野にはわからない。
 熱に浮かされたような色の薄い目が、狂ったようにぎらついている。
「貞節などということばとは、無縁にしてあげましょうねぇ」
 狂ってる?
 ぞっとした。
 しかし、嫌悪感に震える暇すら、浅野には与えられなかった。浅野が顔を背ける間すらなく、清流が、深く、くちびるを合わせてきたからだ。
 今更ながらに、清流の本気に、浅野は、怯えた。
 どこでなにがどう狂ったのか、どうして、清流がここまで、自分のことを信じてくれないのか、話を曲解するのか、執着するのか。すべて、浅野には、わからなかった。ただ、清流は、なにがあっても、自分を抱くつもりなのだということだけが、痛いくらいに感じられて、絶望を感じていた。
 目的の階にエレベーターが到着した軽い衝撃と、ベルの音に、浅野の全身が、震える。
 ディープ・キスから解放されて、一息つく間もない。
 見覚えてしまった玄関ホールから、リビングに入り、上の階にある清流の寝室へと引きずり込まれた。
 細身に見えるのに力強い腕は、どんなに、浅野が抵抗しても、びくともしなかった。
 広い室内の中央に、キングサイズと呼ばれる代物らしいベッドが据えられている。壁一面が収納にでもなっているのか、それしかない部屋だった。
 いまだ明るい南国の陽射しが、遠く海を望める大きな一枚ガラスの窓からさしこんでいる。
 広いベッドの上、投げ出される衝撃に、気が遠くなりかけた。
 逃げようとからだを返したところに、のしかかられて、悲鳴も出ない。
 瞼に溜まっていた生理的な涙が、目尻から溢れ出す。
「郁也……」
 何度も名前を耳もとでささやく清流が、ただ、怖ろしかった。
 ことばも通じない、なにか、別の人間に、清流が変貌を遂げたかのようで、浅野は、清流のからだの下で、ただ、全身を縮こまらせていた。

「くそっ」
 かすれた声で、浅野は罵った。
 あれから、三日だろうか、十日? それとも、一月? 何日が過ぎたのか。頭が朦朧として、わからない。
 かすかに、空腹感があった。
 部屋に閉じ込められて、清流に抱かれる毎日に、からだは、着実に慣れている。でなければ、空腹など、感じないに違いない。
 そんな自分自身に、嫌悪と拒絶とがあった。
 浅ましいとでも言えばいいのか、それとも、イヤらしいと、言えばいいのだろうか。清流の、ことさらに赤裸々な台詞の数々が、刹那脳裏を過ぎった。
 ベッドから下りた瞬間、耳鳴りがした。それが、掻き口説くような、清流の声へと、摩り替わる。
 愛していると、兄から奪ってみせると、狂人の睦言は、日々、とめどなくなっていった。
 そんなに長い間、ここにいるわけはないはずだと思うのに、いつからか、殺されそうな恐怖を感じるようになっている。
「男と心中なんて、いやだぞ」
 いつか、冗談で独り語ちたことがあるような台詞を、口にしてみた。
 それは、暗く、重々しく、床に落ちて砕けた。
「なんか、もう、冗談じゃ、すまされない……かも」
 親父が、警察に捜索願を出していないだろうか?
「親父……家に帰ってなかったり」
 いつも仕事で飛び回ってるだけに、ありえそうで、怖い。
「そういえば、ポゥが、自分が清流の車に載せられたところを見ていたはずだよな………」
 思い出した友人は、籍のことで忠告をくれた人物だった。
「ばっくれてるとか……」
 籍一族は、怖い――そんなことを教えてくれたポゥだったから、関わりあいにはなりたくないと、思っていたとしても、仕方はないのだろう。
「うわ………」
 自分の身の上が、心許なさ過ぎて、浅野は、眩暈を感じた。
 床にへたり込み、肩で荒い息をつく。
 窓を睨み据える。
 あそこから逃げられればいいのに。
 強化ガラスの窓は、嵌め殺しではない。この部屋のベランダに出ようと思えば、いつでも、出入り自由だ。清流の気まぐれで、ベランダで食事と洒落たこともある。ただし、それまででしかない。ベランダから下を見れば、目が眩むような、高層の建物だと思い知らされる。しかも、この階にあるベランダは、ここだけなのだ。
 あとは、ドアだけだが。
 いつも、鍵がかかっていて、清流が掛け忘れたことなど、一度もない。
「ダメもとだよな……」
 膝に力を入れて、立ち上がり、ふらつきながら、浅野は、ドアに近づいた。
 目覚めるたびに、一度は、試さずにいられない。
 真鋳のデコラティブなドアノブを、恐る恐る、握りしめる。
 ほんの少しだけ、力を加えてみた。
「!」
 浅野の双眸が、大きく見開かれる。
 まさか……かすかに開いたくちびるの上下を、浅野の舌が、舐め湿す。
 かちゃりという乾いた音と共に、他愛もなくドアが、開いた。


From 8:40 2005/06/20 to 16:29 2005/06/20


7



 イヤだ。
 夢にうなされ、浅野が、呻く。
 もう、イヤだ。何も、思い出したくない。思い出す必要など、どこにもないのだ。
 なのに―――――


 ひとの気配のない廊下を、浅野は、覚束ない足取りで歩いた。
 厭な、予感が、する。
 それは、覚えこまされた、清流の、睦言――いや、違う――脅迫のせいだ。
 一生自分のところから出さないと、そうまで言われて、いくら、心身ともに弱ってはいても、はいそうですかと、肯えるはずはない。
 死んでも逃げてやると、食ってかかった浅野に、清流は、言ったのだ。浅野の首を絞めながら、やさしいと言っていい笑みをたたえて―――(むくろ)になっても、逃がさないと。
 ここから出る方法、浅野が、清流から逃げられる手段は、ただのひとつぎりしかない。しかし、それを浅野は、選ぶことはできない。それは、浅野にはわかっている。たとえ、今となっては、清流は、浅野が、たとえ清流のすべてを受け入れたとしても、ここから出してくれる気などないのだ――としても、浅野には、自分の手を汚すことなど、できないのだ。
 清流は、浅野の目を覗き込んで、付け加えた。
 酸欠で暗くなった視界に、ガンガンと鳴る耳に、
『僕が死ぬ時には、忘れずに君を連れてゆきます』
と、清流は楽しそうに笑んで、そう言った。
 郁也が死んだとしても、ここからは、出さない。郁也は、他の誰にも、やらない。逃がさない。たとえ僕が死んだとしても、それでも、郁也、君は、自由になどなれない。
 そうまで言われても、殺せるはずがない。
 こんなことをされているというのに、最後の最後で清流を憎みきることができない自分を、浅野は、自覚していた。
 決して、清流が自分に求めるのと同じ意味で、清流のことを好きなわけではない。それは、断言できる。けれども、浅野は、何をされても、清流を、切って捨てることができないでいるのだ。
 知り合わなければよかった。ひとを見る目が無い。そう、嘆きながらも、嫌えない。正確に言うなら、行為自体はゾッとするくらいにイヤでたまらないが、それを強要する相手のことを、見限ってしまえないのだ。
 多分、同情しちまってるんだろ………。
 ストックホルム症候群とかってあるけど、アレかもしれない。
 始末に終えないよな。
 浅野は、肩を落とした。
 詳しくは知らないが、ミステリィとかでよくある、誘拐犯に、同情したり依存したりする、アレだ。
 まったく知らない相手にですら、そうなのだから、相手が、友人なら、なおさらかもしれない。
 浅野は、廊下の手すりに凭れて、下の階を見下ろした。
 疲れたのだ。
 のろのろしていたら捕まってしまう。
 危機感はあるというのに、からだが、動かない。
 すぐそこには、階段があるというのに。
 ぼんやりと見下ろす視線の先は、大理石の、床である。カーペットなど敷いていない剥き出しの大理石が、陽光を浴びながら降りしきる微細な埃に、きらきらと飾られている。
 ここから落ちたら、痛そうだよな………。
 馬鹿なことを考える。
 痛いどころの話じゃない。
 自分で自分に突っ込みを入れながら、階段の手すりに手をかけた。
 その時だ。
 浅野の心臓が、からだが、大きく震えた。
 空気が、ねっとりと密度を増して、浅野を取り囲んでいるかのような、そんな、錯覚すらあった。
 大きく瞠いた浅野の双眸に、清流が映っていた。
 階段をゆったりと上りながら、その色の薄い双眸は、浅野を捕らえて、微塵も揺るがない。
「あ……」
 息が苦しい。
 首を絞められた感触が、まざまざと蘇る。
 浅野が動けずにいる間に、清流は、階段を上りきる。
 すぐ目の前に立って自分を見下ろしてくるまなざしのきつさ、そこにありありと現われている、執着心。それが怖ろしくて、
「なんで………」
 なんで、オレなんだ。
 そう叫びたかった。
 しかし、
「なぜ? ああ、今日は少し、用がありました」
 返された答えに、違うと、浅野が首を振る。
「淋しかったのですか」
 使用人は、暇をとらせました。
 浅野を抱きしめながら、清流が、耳もとで、ささやく。
 抱きしめられただけで、からだに点った熱に、浅野は、無様にうろたえていた。
 こんな自分はイヤだ。
 まるで、清流にされることを、期待しているみたいだ。
 こんな、こんなのは、違う。
 知らない間にもたげられていた顔に、清流の顔が近づいてくる。
「っ!」
 くちびるに、相手の呼気を感じたと、そう思った瞬間、浅野は、力任せに、身をよじっていた。
 自分のどこに、これだけの力が残っていたのだろう。
 浅野は、廊下の手すりに背もたれたままで、自分の手を、呆然と見詰めた。今の自分に、まさか、こんなことができるとは、思ってもいなかったのだ。
 清流は、倒れていた。床に尻をついたままで、顔を覆った前髪を掻きあげ、浅野を、凝視している。その口角が、ゆっくりともたげられてゆくのを、浅野は、ただ、見下ろしていた。
 背中が、じっとりと汗ばんでくる。
 逃げなければ。
 足が震える。
 全身も、震えている。
 手すりに縋りつくように、浅野は、一歩、後退した。
 逸らすことさえもが恐ろしくてならない視線の先では、ゆったりとした動作で清流が立ち上がっていた。
 もう一歩。
 頼むから、動け。
 泣きたい思いで、浅野が、自分の足を叱咤する。
「どこまでも、拒むのですね」
 そんなに、僕のことが、嫌いですか。
 違う!
 声など出なかった。
 浅野は、必死に首を横に振る。
 嫌いじゃない。
 あんたのことは、決して嫌いじゃないんだ。
 けど……。
 こみあげてくる涙を、拭う気力すらない。
 どうすれば、通じるのだろう。
 どうすれば、自分のことばを、ストレートに、受け取ってくれるのか。
 どう返しても、ねじくれて受け取ってしまう清流に、これまで、どんな目にあわされてきたか。
 刹那思い出してしまった行為の数々に、浅野の全身が、竦んだ。
「郁也……どんなに僕が、君のことを恋焦がれているのか。どうすれば、判ってもらえるのでしょう」
 ゆらりと、一歩、近づいてくる清流を、浅野は、ただ、見つめていた。
「ここ……ここを切り裂いて、君に、僕の心臓を捧げましょうか」
 それとも。
 清流の表情が、ふと、無になった。
「そう。それとも……」
 自分を見つめてくる清流のまなざしに、暗い(おき)が、点されるのを、浅野は、ただ、声も思考も動きすらも忘れて、凝視していた。
 近づいた清流の手が、自分の両肩を掴む。その痛みに、思わず呻く。
 互いの息を感じる距離に、清流の顔がある。
「それとも………」
 清流は、笑ったようだった。
「そう。いっそ、君を殺してしまいましょう」
 最後に君がその双眸に映すのは、僕の顔だけ。
 僕だけを、その目に灼きつけて、そうして、君は、僕だけのものになる。
 いつ逃げるか、と、びくびくしなくともよくなります。
 ほんの少し、ほんの少しだけ苦しいでしょうが、我慢してください。そうしたら、もう、何も感じなくなりますよ。あんなに君が嫌がる僕とのセックスも、もう、苦痛ではなくなるんですから。
 歌うように言って、クスクスと、笑う。
 狂ってる――――それは、確信だった。
 どうして、なにが、彼を、こんなにも追い詰めたのか。狂わせたのか。浅野には、見当もつかなかった。
 じわじわと首にからみつく清流の指を、跳ね除けようとした手は、他愛もなく掴み取られた。
「もう、これも、いらない――ですよね」
 手の甲に、掌に、指の一本一本に、清流が、くちづけてくる。
 そうして、何をされるのかわからずに、ただ、清流の狂気にさらされていた浅野が感じたのは、焼けつくような痛みだった。
 腕の骨が折れたのか、肩の骨が折れたのか。
 気が遠くなるような痛みは、しかし、やはり同じ痛みのために、浅野に逃げ道を与えてはくれなかった。
 気絶することもできず、ただ、霞む視界に、清流を、穏やかな笑みを浮かべた清流の顔を、映していた。
「愛しています」
 清流のことばが、浅野の耳から脳へと浸透してゆく。
 もう、なにも、考えられなかった。
 頬を濡らす涙が、自分のものなのか、それとも、清流のものなのかさえ、浅野には、わからない。
 喉を絞める清流の指の強さだけが、現実だった。

From 16:34 2005/06/21 to 22:09 2005/07/02



7


「なにをやっている」
 厳しい叫びが、誰のものなのか、浅野にはわからなかった。
 突然流れ込んできた新鮮な空気に、喉が焼け、肺が悲鳴をあげる。
 苦しかった。
 咳きこみながら、涙を流しながら、しかし、浅野は、自分が死なずにすんだのだと、まだ、気づいてはいなかった。
「ああ」
 誰かの悲鳴が、耳を打つ。
 誘われるように、ぼんやりと、声の主を求めて、浅野は、清流の指が、喉から外れていることを、ようやく、知った。
 白々と、青ざめた顔が、色の薄いまなざしが、歪んでいる。清流が、涙を流していた。
「せ……いり………うっ」
 彼に向けて伸ばそうとした手は、動かない。
 だらりと、重く鈍い熱をはらんでからだの脇に、下がっているだけだ。
 なにが、起きていたのだっけ。
 不思議に思いながら、自分の右手を視線の隅に映したままで、逆の手を使って、清流の流す涙に触れようとした。
「せいりゅう………」
「いく……や」
 聞いたことがないくらい頼りない、清流の声だった。
 色の薄い目が、自分の顔と右手とを、何度も往復して見ている。
 青ざめた頬が引き攣り、血の気もない。
「っ」
 とん、と、軽く押しやられて、手すりに背中が当たった衝撃に、からだの右半分に、激痛が駆け抜けた。
 痛い。
 ズクズクと疼く痛みに、視界が焼ける。
「ごめん。郁也」
「せい……」
 踵を返した清流が、去ってゆく。
「まって……」
 何を言うつもりだったのか。痛みを押して、浅野は、清流に追いすがった。
 なぜだか、このままではいけない。そう、感じていた。
 清流のサマーセーターに手がかかる。
 力を込めて、握りしめた。
 からだごと振り返った清流が、
「ダメだ。郁也……」
 そう言って、笑った。
 淋しげな笑顔に、
「いやだっ」
 首を振って、叫んでいた。
「愛して、いるよ」
 そう言って仰け反った清流の、その後ろには―――なにもない。
「やめろっ」
 セーターの裾をを握りしめる浅野の手が、強く、引かれた。
 手にかかるその重みが、清流の体重なのだと、そう感じる暇もあればこそ、浅野は、清流に引きずられた。
「あぶないっ」
 廊下の手すりに、したたかに、胸を打ちつける。
 しかし、そこまで、だった。
 誰かに抱えられている。そんな認識は、浅野にはなかった。腕の痛みも、胸を打った痛みすらも、感じてはいない。
 瞠いた視線の先に、赤く染まった、大理石の床が、きらきらと舞う埃に装飾されている。
 そうして、割れた花瓶の欠片と、活けられていた花もまた散り、赤く、染まっている。
「……せいりゅうっ」
 伸ばした手、が、宙を泳ぐ。
「あぶないっ」
 誰かが、浅野が、手すりから落ちないように、支える。
「はなせっ」
 なんで。
 なんでなんだ。
 どうして。
 赤く染められた疑問符が、浅野の脳裏を占めていた。
 やっとのことで、階段を降り、倒れている清流の傍らに、膝をついた。
 ペンキをぶちまけたような血潮の中に、淋しい笑いを貼り付けたまま、清流は、仰臥している。
 色の薄い目は、天井を見上げ、白々と色をなくした顔の中、くちびるの赤が、目に痛い。
 まだあたたかい血溜まりが、浅野を濡らす。
 頭を膝に抱え上げた瞬間、チャリと、音をたてたものを、浅野は、ただ、眺めた。
 いつも、清流の首に下がっている、金の十字架もまた、血塗れていた。
「せいりゅう?」
 自分のどんなにささやかなつぶやきすら聞き逃さない清流なのに。
「せいりゅう」
 なぜ、返事をしない。
「起きろよ、清流! 滅茶苦茶性質(たち)が悪いぞ」
 自分の右腕がどうなっているのかなど、浅野には、関係なかった。ただ、ひたすら、清流の首を振りつづけた。
 どれくらいそうしていたのか。ふと、左肩に、ひとの手が乗せられるのを感じた。
「よしなさい。もう、清流は、死んでいる」
 見上げると、そこには、記憶にある鋼色の双眸があった。
「しょう、こう……」
 相手の名前をつぶやいて、そうして、浅野の意識は、そこで、途切れたのだった。


From 11:52 2005/07/03 to 12:46 2005/07/03
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