そう、その夜だ。
痛むからだを宥めながら、オレは、やっとのことで、館を抜け出した。
オレひとりじゃ無理だったろう。けど、部屋から出ようとしてたオレを見つけたそのひとは、オレを、逃がしてくれたのだ。
赤い目に白い髪の、名前も知らないその女のひとは、オレの世話をしてくれてたひとだった。
今オレは、そのひとを待っている。
後から食料とかを持って来てくれるって言ったんだ。
なんでそんなに優しくしてくれるんだろう――聞きたかったけど、ひとの気配がしたような気がて、オレは、彼女に言われるま
ま、館を出た。
待ち合わせの木にたどり着くのが精一杯だった。
へたりこむように、その場に座り込んで、オレは木に背もたれた。
彼女が来たら、心から感謝しよう。彼女が手助けしてくれなけりゃ、オレは、愛人になるしかなかったろう。
愛人―――その言葉を思い出して、オレはゾッと震えた。
オレ、男だぜ。
そりゃ、男でも愛人ってあるんだろう。けど、それは、微妙に、ヒモとか呼ばれてそうで、違う気がする。
男のオレが男に抱かれて、愛人なんてそんなの、滅茶苦茶イヤだ。
「くそっ」
「オフクロたち……心配してんだろうな」
これからどうしようか。
どうやって来たのかもわからないから、帰る方法などわかるはずもない。
(そういや、殺されかけたんだよな……)
理由も何もわかんねーっつうのに、凶器持って追っかけられたのは、滅茶苦茶恐怖だった。
(言葉もつうじねーんだっけ)
あそこにいれば、言葉に不自由はしなかった。
けど、だからって、戻ってどうする。
戻ったら、即、あいつの愛人だ。
動けるようになったら、部屋をヤツの寝室の奥に移すとか言っていた。
「オレは……あいつのこと、愛してなんかないんだっ」
そういう問題じゃない。
そうだ。
オレは男だし、あいつだって、男だ。オレは男なんか好きじゃないし、押し倒されたいなんて思ったこともない。それに、こっち
じゃどうか知んねーけど、オレは、あいつに………。
「くそっ」
生々しく思い出しちまったのは、あいつにされたことだ。
「ばかやろっ」
いいヤツなんだなぁって、感謝してたのに。
なのに、あいつは…………。
木の幹に寄りかかって、オレは、泣き出したいのをこらえた。
忘れようとしてたっていうのに、結局思考がこっちへと戻ってきちまった。
オレ、もう、これ以上動けないんだ。今だって、ホント言うと、疼痛がひっきりなしで、立つことすらできない。彼女が来てくれ
ても、彼女一人じゃ、オレを支えるの無理だと思う。それに、昇紘にばれたら、彼女、どうなるんだ? 思いついたそれに、オレ
の心臓が滅茶苦茶激しくなる。
「食料貰って別れたほうがいいな……。野垂れ死ぬの覚悟……しなきゃだよな」
つぶやいて、オレは、空を仰いだ。
満月に近い月が、下界のことなど我関せずってようすで、浮かんでる。
このまま動けなかったら、ここで、オレは死んでしまう可能性もある。もし動けるようになっても、ひとりでこっちでやってけるか
どうか、自信は、ない。皆無だ。だからって……。
オレは、頭を振った。動いたことで、全身に疼痛じゃない痛みが走ったけど、気にしないことにした。
「まだ、あったかいからどうにかなるか」
冬が来るまでに、こっちの世界に慣れよう。
「とりあえず、ヤなことは、考えんとこ」
ゆっくりと木の幹に凭れなおして、オレは、目を閉じた。
どれくらい目を瞑っていたのだろう。
オレは、ケモノ臭さと、生暖かな空気とに、目を開けた。
月は雲間に顔を隠しているのか、やけに視界が暗い。
けれど、オレがその場に固まってしまうくらいには、物は見えている。
今度は、意識がぶっ飛ぶなんてことはなかった。が、そっちのほうが、絶対ましだ。と、オレの心は、叫んでた。
何故って、オレの目の前には、でっかい、ケモノの顔があったからだ。
一対の緑の目が、オレの目と鼻の先で、燃えるように光ってる。
その口から覗いてるのは、オレの腕なんか簡単に噛み千切っちまうだろう、白い、牙。
悲鳴をあげることすら思いつかず、オレは、ただ、そのケモノを、凝視してた。
と、
「逃ガサナイ」
奇妙に歪んだ声が、間違いなく、そいつの口から発せられた。
まさか――――
オレがそう思ったとき、雲間に隠れていただろう月が、あたりを照らした。
オレは、弾かれるように、木の幹に縋って、立ち上がっていた。
なぜって、目の前にいるのは、巨大な、一頭の、虎だったからだ。
震える足を必至になって動かそうとした。
しかし、足は、オレのだっていうのに、オレを平然と裏切りやがった。
少しも、動きやしない。
それどころか、後足で立ち上がった虎の前足がオレの肩に乗せられたとたん、まるで、崩落するかのように、その場に、膝を
突いたんだ。
ぞろりと、虎の舌が、オレの顔を舐めた。
そうして、
「捕マエタ」
まるで嘲笑うかのようにそう言うと、虎は、オレを、その場で、引き裂いたのだ。
「うわぁ!」
叫んだとたん、喉が悲鳴をあげた。
自分で叫んで、挙げ句咳きこんでりゃあ世話ないよな。
死んじまいそうだと覚悟を決めるくらい、苦しい。
けど……オレは、生きてる。
背中をさすってくれる手が、彼女の手でないことが、とても悲しい。そう感じられるくらいには、確かに、生きているんだ。
名前も知らないままだった。
赤い目に白い髪の、彼女は、昇紘に、いや、正確には、昇紘に命じられた小司馬に、殺されようとしてた。
昇紘が人間じゃなく、小司馬も、また、人間じゃないことを知ったあの時、彼女はあの場に引き据えられていた。
場所は、屋敷の外にある、石畳を敷いた、泉水のある空間だった。
昇紘の命令で、小司馬が、変貌を遂げた。
小司馬は、灰色の犬に化けた。めくれ上がった口吻からこぼれる剣呑な歯列が、恐怖を増大させる。
『だ、だめだっ。やめてくれ』
オレは、あの夜の凶行の傷が癒えたばかりだったが、昇紘に引きずられるようにして、あの場に、立ち合わせられていた。
『私からおまえを奪うものに、容赦はしない』
低く固い声。その奥に、聞きたくないものを感じて、オレは、必死にもがいた。
『奪ってない。彼女は、オレを、逃がしてくれただけだっ』
『……』
昇紘の鋼色の目が、オレをきつく見た。
そうして、フンと鼻で笑うと、
『同じことだ』
そう言って、
『小司馬』
ひとことだった。
たったひとこと。
鋭い牙が、震える白い肌を裂こうとしていた。
『やめろー』
今、まさに、目の前に広がるだろう血の赤に、最後の最後で、オレの足が、動いた。
喉に、衝撃を、次いで、灼熱。痛みがやってきたのは、それから、だった。
つづく
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start 10:41 2005/05/30
up 13:38 2005/05/30
あとがき
またやっちゃった、ケモノな、昇紘さん。このシチュエイション、お気に入りらしいです。うう獣○xx 苦手なひと、ごめんなさい。
でも、タイトルが「散華月」だしなぁ……。「山月記」の、誤変換。うすうす感じてたひとはいるだろうと思うんだけどね。
今回、短めです。暇つぶしには、なるかなぁ。少しでも楽しんでいただけますように。
もしかしたら、次くらいから、陽子ちゃんご一行が、登場するかもかもvv 見切りですので、なぞだけどね。