「えっ?」
突然のことに、なにが起きたのか、わからなかった。
ただ、心臓が引き攣りながらも、驚愕したのだと喚き散らしている。
暗順応した闇の中、闇よりも黒い人影に、ベッドに押さえつけられている自分を、はじめは、痛いくらいに感じていた。
互いの吐息を感じるほど間近に、黒々とひとの顔の影がある。手は疾うにひとまとめに掴まれ、びくとも動かない。
ぞわりと、全身がが粟立つ。からだが、恐怖に、情けないほどに震える。
「やめろっ」
ほのぼのとした夢のなごりがはじめを捕らえていたせいか、からだの反応よりも数瞬遅れて、心が、軋んだ。
あれは、悪夢でしかない。そう。断ち切られてしまった、記憶の再現だ。
いや。自分の手で、断ち切ってしまった、過去だ。
なのに、口から出たのは、
「翔っ」
今は亡い、友人に、救いを求めていた。
瞬間、頬に、熱が爆ぜた。
二度三度と、頬を張られ、頭の芯が朦朧となる。
クク……と、男の、喉の奥で抑し殺した嗤いが、ジクジクとした頬の痛みを凌駕した。
「殺した男の名前を呼ぶのですか」
「違うっ」
「なにが違うのです」
低い声が、からかうかのように、はじめの耳を通り抜け、脳の奥に、直接響いた。
「違う! オレが殺したんじゃない。翔は…………」
激しく首を左右に振るはじめの頤が、男の見かけとは違う力強い手に、掴まれる。
「そう。弟は、自殺しました。……しかし、きっかけを作ったのは、君ですよ? 違いますか、はじめ」
「ちがうっ」
闇の中、闇よりも濃い黒を、必死になって、はじめは睨みつけた。
「……翔は、自殺なんかしない」
自分が口にしている矛盾を、はじめは、意識してはいない。ただ、己を捕らえつづけている、拭いがたい罪悪感から逃れようと、必死になるばかりだった。
「なら、どうして、弟は、死んだんでしょう?」
耳元でねっとりと、男が、面白がっているのを隠しもせずに、訊ねる。
「か……かけるは………」
男が、はじめの震えを楽しむかのように、頤から離した手で肋の浮いた薄い胸を撫で摩る。気絶するように寝入るまで男に弄られていたはじめのからだは、愛撫に敏感に反応し、ささやかな胸の飾りが、じわりと目覚めた。
「や………」
湿った感触に息を呑んだはじめのからだが、竦みあがる。肌の上をぬめるくちづけの執拗さに、はじめは、それまでは揶揄うだけだった男が本気になったのを感じ取った。
「い…や……だっ」
渾身の力で、両手を縛める男の手を、振り払う。と、ほぼ同時に、
カシャン――――
ベッドの上に転がっていたらしい切子のグラスが、払い落とされたらしく、床の上で、派手な音をたてて、砕け散った。
カシャン――――
「あ……悪い」
いつもの翔の部屋で、テーブルの上の砂糖壷を転がして、はじめが、焦ったように翔を見上げた。
「大丈夫ですよ」
胡坐を崩して立ち上がろうとするはじめを制して、翔は、こぼれた砂糖をまとめ、キッチンに立った。ついでに、最近はじめが気に入っているスパイス・ティーを淹れなおす。疾うに香も熱も散ってしまった紅茶を、はじめがさきほど一息に飲み干していたのを思い出したのだ。
リビングに戻ってきた時、まだ、はじめはぼんやりと、心ここにあらずといった態のままで、翔は、苦笑を隠せなかった。
元来アウトドアタイプではないはじめの、アジア系にしては白い、象牙めいた頬が、興奮の名残なのか、うっすらと上気している。
「まだ、落ち着かないの?」
湯気の立つスパイス・ティーをそっとテーブルに置いた翔の胸の中に、ざわめきが湧きあがる。
(これって……なんだか、大好きなものを、取られた時のような………。そう。大切でたまらなかった幼馴染にボーイフレンドができた時の、あの感じににてるような)
翔は、はじめの横に席を移動しながら、首を傾げた。はずみで、開いた襟元の燻したような金の十字架が、鈍く光る。
「え? ……あ。だってさぁ、翔。やっぱ、興奮するよ〜。ほんと、翔が友達で、すっごいラッキーって感じ」
約束どおり、はじめは、今人気のイリュージョニストに、会わせてもらったのだ。
「岸宮玲子と思いっきり喋れるなんて、夢みてーだ。サンキューな。翔」
そんなに好きなら、またおいでって言ってくれたよな。
「かまわない?」
「え? なにが……」
「聞いてなかったんだ」
ワクワクしていた気分に水をさされたような気がして、はじめが、ほんの少しだけ、膨れっ面をして、隣に座っている翔を見上げた。
「また、あそこ、行ってもかまわないかって」
「そんなことだったら。時間つけて僕が連れて行ってあげる」
「え、いいよ。もうひとりでだって行けるし。ただ、ほら、やっぱり、翔の許可がいるのかなって」
「……ひとりで?」
「だめか? やっぱな。いくら、岸宮さんがおいでって言ってくれても……顔パスは無理?」
「岸宮さんが?」
いつになく真剣な翔の表情が、目と鼻の先にあった。
岸宮玲子は、世界トップクラスのマジシャンである。ラスベガスの有名ホテルに、岸宮玲子シアターができて、二十年近く、現在でも現役でショウをおこなっている。これは、マジシャンの入れ替わりの多いラスベガスでは、破格の記録だ。ついた呼び名は、マジッククイーン。
「どうしたんだ?」
思いも寄らない沈黙に、はじめは、翔の顔をまじまじと見やり、
「眉間に皺が寄ってっ………ぞ?」
伸ばした手を、翔に掴まれた。
色素の薄い褐色の瞳が、はじめを凝視している。
「かけ………る?」
声が掠れるのは、目の前の友人が、突然、見知らぬ何かに変貌を遂げた――そんな恐怖を覚えたからだった。
(オレ、なんか、変なこと言ったか?)
ぐるぐると、先ほどの会話を反芻する。
考えれば考えるだけ、はじめは、訳がわからなかった。
「はじめ」
ひずんだような、翔の声が、はじめを呼ぶ。
据えられたままのまなざしは、まるで、高熱を発しているかのようにきらめき、微塵も揺らがない。
次第に近づいてくる翔の顔に、ざわざわと、全身がざわめき震える。
凝りついたような、痛いほどの緊張感が、はじめを捕らえていた。
わけがわからないまま、ただ、くちびるに、翔のそれを感じていた。乾いたそれが熱く感じられる。ちろりと、くちびるのあわいをくすぐられ、抉じ開けるように忍び込んできたそれが何なのか。閉じてもいなかったはじめの瞳が、瞬間、弾かれるように瞬いた。
突然藻掻きはじめたはじめを、翔が床に押し倒す。そのころには、翔の舌は、はじめの口腔を思う存分、味わっていた。少し、スパイスの香がする。女性を押し倒すのとは違う。からだの下のはじめの渾身の抵抗が、心地好く思えて、翔は、長いくちづけを、はじめの耳の付け根に、移した。
口を開けば、情けない声が出そうで、はじめは、必死に声を殺していた。
からだが、熱い。首筋を這う、翔のくちびるに、どうしようもないくらい煽られて、おさまりがつかなかった。
「ひゃっ」
たくしあげられたTシャツの下、ひんやりとした掌が、はじめの胸をまさぐり、撫で摩ったのだ。
「邪魔だね。脱いでしまおうか」
問いかけの形を借りた断定口調が、それでものんびりとしているのが、やけに耳に残る。
「やっ。なんで……だよっ」
息を整え、やっと紡いだ言葉は、しかし、翔の耳に届いたのかどうか。
硬いものが千切れ落ちた音に、はじめのTシャツを脱がしてしまおうとしていた翔の動きが、止まった。
その好機を過(あやま)たず、はじめは、自分の胸を見下ろし息をすることすら忘れてしまったかのような翔の下から、そろりと抜け出したのだ。
上半身を起こして、はじめは、翔が何を見ているのか、やっと理解した。
はじめの胸の上、チェーンが千切れたのだろう、翔の首にいつもかかっていた、年代物とわかる金の十字架がぽつんと乗っていた。
高遠の劣情に翻弄されながら、はじめの手が、泳いだ。はじめの喉元には、記憶にある金の十字架と寸分たがわぬものがあった。
アンティークなのだろうそれに、はじめの手が触れる寸前、高遠の手が素早く伸びた。
「余裕ですね」
自由にさせていた両手をひとまとめに、もう一度ベッドの上に押さえつけ、高遠が、ささやいた。
余裕などない。ただ、苦しかった。
形見です――――と、無理矢理つけられた十字架のペンダントが、疾うに馴染んだはずのそれが、高遠に抱かれている時に肌に触れる感触が、はじめの中の罪悪感を夢幻に蘇らせるのだ。
はじめは、それを高遠が知っているはずだと、確信している。知っていて、楽しんでいるのだと。
でなければ、高遠が、自分にこれを寄越すはずがない。
これは、翔の、翔と遙一の母親の形見だった。ふたりの母は、カソリックの敬虔な信者だったという。
カソリック――いや、おそらくはキリスト教全般で、男同士のこういう関係が禁じられていることを、はじめですら、聞いた記憶があった。あの日、翔が、動きを止めたのは、偶然とはいえ千切れたクルスに、母親を思い出したからなのかもしれなかった。
これは、翔が死んだ時、彼の血に、染まっていた。
見つけたのは、はじめだった。
違う。
はじめの目の前で、翔は、死んだのだ。
冷たくなってゆく、翔のからだの感触が、床に広がってゆく血潮の質感が、記憶の奥底からにじみ出る。
グゥ―――と、はじめの喉が鳴った。
突然の過呼吸の発作に、はじめの全身が、じっとりと冷たく湿り、震える。
息が苦しい。
喉を掻き毟りたい衝動を、幸か不幸か、高遠の手が、抑え込んでいる。
霞む視界に、自分を覗き込んでくる高遠の顔が、いっぱいに映し出された。
高遠のくちびるに口を塞がれたのを最後に、はじめは、意識を失ったのだった。
つづく
1へ
start 19:22 2005/04/15
up 15:58 2005/04/17
リメイク10:55 2005/05/22
あとがき
スライド元バージョンと、進行を変えるつもりなんですが、無理かも……。強い意志が必要ですvv
救いは、はじめちゃんってとこかも知れんなぁ。“彼”よりは、運の滅茶苦茶いい子だから。でも、このはじめちゃんは、ふつーの男の子だからなぁ。
少しでも楽しんでいただけると、幸いです♪