たとえば、それが  4




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 雄大な滝のたてる飛沫と陽光とによって生み出される虹を背に、アヴィシャ・ヴァイジャ・ジャヴァは書類を読んでいた。
 細かい模様が浮き上がるように細工をされた上に貝の内側にある真珠層を薄く剥ぎ砕いたものが貼り付けられた白い革製の壁紙は、要所要所が銀で彩色され、七色の光に染まり、尚且つ秘めやかな光を放っている。床に敷かれた白絹の絨毯もまた、技巧的な模様が施された見事なものだ。
 細やかな銀と真珠層の七色の輝きとが、一見すると白々と冷たい無機質な部屋をほんの少しだけ暖かく居心地の良いものへと変えている。
 そのはずであった。
 艶やかな照りを宿すこげ茶の執務机にそれまで見ていた書類を伏せて、ようやく顔を立ち尽くしたままの男に向けた。日に焼けた朴訥そうな年配の男が、帽子を胸元に押さえつけるようにして立っている。白いシャツにこげ茶のベスト、同色のジャケットとズボン、黒い革靴という身なりは、庶民にしてみればかなりめかし込んだものである。大公に謁見するために気を遣ったことがうかがえた。
「そ、その………」
 この部屋に通されてからの長い沈黙に、男は耐え切れず、汗を拭きながら口を開く。
 いたたまれない。
 椅子を勧められるとはもとより考えてはいなかった。しかし、この、自分たちの村をはじめ十を数えるだろう村々を荘園として直接支配する大公閣下がたった今自分に向けてきた栗色の双眸に、感情の欠片が込められていないことが、彼の全身に冷や汗をにじまさせるのだ。
 大公にとって、自分など路傍の石よりすら価値のない存在なのだと思い知らされる。
「モアン殿お控えください」
 静かな声に、モアンと呼ばれた男がはじかれたように震えた。
 自分が何をしたのか、処罰されてもおかしくない、礼を失した行動だったとくちびるをかみしめた。
 厳然たる上下関係からすれば、ただの一村の村長から許されもせずに大公に声をかけることなど、してはならないことなのだ。
 栗色の双眸の中、瞳孔がひたりと彼に据えられた。
 はじめて大公がそこになにがしかの感情を宿したことで、彼の背中が、ぞわりと逆毛立つ。
「デル村の長だったか」
 静かな声だった。
 しかし、それは大公の眼差しとも相まって、彼を怖気立たせるばかりだった。
「返答を」
 再び存在感を消していたアディルに促され、彼は震える声で諾と応えた。
「そうか。それで、陳情ということであったか」
 かすかに首を傾げる大公の動きにつれて、栗色の艶やかな髪がかすかに揺れた。
「は、はい」
 無様に震える全身を叱咤しながら、やはり滲み出す汗を拭い去る。
 目の前で大公が再び書類、彼が携えて来たそれを取り上げる。
「課税が過ぎるとあるが、我が荘園に課している税といえば、アグリアメタクシのみであろう」
 違ったか?
 大公領にある直轄の荘園の山にのみ生息するアグリアメタスソコリガの幼生のみからその絹糸は摂ることができる。
「ほかとは違い、税を一年に一度一品だけに決め、荘園側が合議の結果承知したのだったと記憶しているが」
 それが、重いと?
「見たところ、そなたの纏うシャツは絹であるようだ。村長の身なりはその村の生活状況に準拠すると思うのだが。違ったか」
「い、いえ、それは………」
 たちまち、シャツが重くなったような錯覚に襲われた。
「聞いた話によれば、そなたの宿泊する宿はアミランダだそうだが」
「そ、それをっ」
 なぜ知っているのかと、後頭部がぞわりと震える。ただの村長風情が泊まるには過ぎた宿だとは思ったが、アグリアメタクシを生産する荘園の長だという矜持から選んだ宿だった。それに、高級な宿とはいえ、その中での等級は真ん中よりも下ほどの宿だ。客層は商人、いって豪族からといったところだった。かろうじて背伸びをしてやっとの宿であったのだ。そう。そこよりも上になると、下級貴族からでなければ相手をすることはない。無理を押して泊まろうとすれば、兵士を呼ばれることになるだろう。
「アミランダに泊まることに文句を言うほど野暮ではないが、な。そなたは、我が荘園の長だ。なればその程度の宿に泊まることもできよう。………が、相応の場所というものがあるだろう。減税の陳情に来たものにふさわしい宿というものが、な」
 違うか?
 部屋を出ていたらしいアディルがトレイを捧げ持ち、大公の執務机に芳しい匂いの飲み物を供する。
 それで口を潤わせ、 「デル村にはアグリアの絹のみを規定の領納めてくるのならばよしと、してある。それで苦しいならば、いま少し生産体制を考え直すべきではないのか」
 陳情に来るよりも先に、することがあろう。
 そう断じる。
「し、しかし」
「そなた、もう少し説明をしようという気はないのか」
 私は、税を上げた覚えはない。
 天候もこれまでとなんら変わりはないと報告を受けている。
 これで、苦しいと言ってくるのであれば、体制自体に問題があるとしか考えられまい。
「ああ、そういえば………アディル」
「は」
 打てば響くとばかりに、アディルが一枚の布を大公に手渡した。
「これは、過日私が出かけた場所で贖ったものだが、そなたこれが何かわかるか」
 大公が手渡した布を、アディルがモアンの手に持たせた。
 スッと血の気が引く心地がした。
「アグリアの絹だと思のだが、その店の主は違うというのだ」
 よく似た別の絹だと−−−な。
 確かに、我が荘園で生産しているアグリアの絹よりはいささか質が落ちると感じるものの、それが王都とはいえ、服飾店に出回るというのは、困る。
 質が落ちるだけあって、安価でもあるらしい。
 あくまでもアグリアの絹に比べてではあるがな。
 これは、アグリアメタスソコリガの糸に普通の絹糸を混ぜて織られている。
「わかるか? これは、我が荘園のうちのいずれかが糸を横流ししているということに他ならない」
「早急に糸の出処を調べます」
 モアンが震える声でそう言った。



 アグリアの絹はその全てが税として納められていなければならない。
 このが国が成り立った折に、神々がそう定められた。
 今では、神官でさえも忘れている。
「これは、神々が混沌の神子に下しおかれたものなのだ」
 大公の表情に初めて感情が宿る。
 苦々しげに。
 忌まわしげに。
 悲しげに。
 王族も創世と終焉の巫女たちでさえ、本来であれば、身にまとうことはゆるされないものであるというのに。
 今、アグリアの絹を纏うことが許されるものは、トオルだけなのだ。
 混沌の神の暴虐をその身に受ける哀れな生贄の神子。
 その苦痛を癒すことができる唯一のもの。
 その本来の意義を平然と踏みにじった王侯や巫女たち。
 あまつさえ、公には無いこととされている混沌の神の神子に、それが渡されることはなくなって久しい。
 だというのに。
 その、無様な紛い物を手に、大公は、くちびるを噛みしめる。
 知った時の驚愕を、まざまざと思い出す。
 そうして、全ては遅きに逸したのだと。
 これさえあれば、渡されていれば、混沌の神子の苦しみは少しは癒されたはずなのだ。
 誰かの面影が大公の脳裏を過ぎり、いつしかトオルに取って代わられた。
「トオル………」
 哀れな、異界から攫われた、少年。
 哀れで、愛おしい、混沌の神子。
 昨日、その少年が混沌の神から受けた暴虐を思い出し、アヴィシャは、こみ上げてくる何かを必死で押し殺した。

 
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