たとえば、それが  6





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 怖気が走る。
 心の底から、恐怖が、こみ上げてくる。
 寒いのは、全身からにじむ汗のせいだろう。体温を奪ってゆく。
 夜である。
 優しい色彩に満たされた居心地のいい寝室に、その影が現れた。まるで、紙に落ちた墨の汚れのように。
 ふたつの月がこの世界の影に隠れた夜である。
 あらかじめ現れることがわかっていてすら、この恐怖を抑えることはできなかった。
 黒い触手が無数に生えた、まるで磯辺で見た記憶のあるイソギンチャクのようなその姿の神が、うねる触手の幾本かを彼に向かわせてくる。
 逃げはしない。
 逃げたところで、いずれ捕まるのだ。
 ベッドから降りてそれを待ち受ける。
 鋭い棘をまとった触手が、トオルの腕に絡みついた。
「っ」
 痛いとは、口にしない。
 しかし、噛み締め損ねた名残が口を突いて出る。
 途端、触手が離れた。
 まるで、トオルの悲鳴に怖じたかのように。
 それでも、神は、トオルに近づこうとするのをやめはしない。
 神の触手が触れた箇所には、深い傷跡が刻まれ、血を流す。
 それは、いつものことだった。
 やがて、神の全身の触手がまるでそれ自体意志あるもののようにうごめきを大きくしてゆく。
 その動きが、トオルの怖気を煽るのだ。
 いつもいつも。
 怖い。
 何度もなんども蹂躙を繰り返されつづけてきて、わかるものもある。
 うっすらとではあるが、決して、自分を傷つけることが神の本意などではないのだと。
 しかし、わかったからといって、どうなると言うのだろう。
 これから起こることも、これから自分が味わう苦痛も、変わることはないのだから。
 それくらいならばいっそのこと、そんなことなどわからなければよかった。
 トオルはそう思う。
 滲む涙の向こう側で、神がにじり寄ってくる。
 そのさまは、まるで牙を剥く野生動物に近づいてこようとする人間の行動のようにも見えて、より一層のこと、怖気が増すのだ。
 認識が違うのだと。
 おそらく−−−ではあるが。
 おそらく、混沌の神は単純にトオルのことを可愛がりたいと思っているのだ。
 その行為が、トオルを毎回傷つけ、苦しめ、殺してしまうということを、神であるからこそ重大には感じていないのにすぎない。なにせ、神子であるトオルは死んでもまた蘇るのだから。
 きっと、神子が怖がる理由も、泣き叫ぶ理油も、なにひとつ、神はわかっていないのに違いない。
 そうなのだろうと、思うのだ。
 ずるりと、鳥肌が立つような音を立てて、神が近寄ってくる。
 うねる触手が空気を震わせ、それが肌を掠る。それだけで、皮膚が切れる。
 痛い。
 けれど、できるだけ、悲鳴は咬み殺す。
 代わりのように、涙がたくさんこぼれ落ちるけれど、これは一晩の我慢なのだ。
「ぐっ」
 触手が全身を捕まえ、力を加えてくる。
 人間であれば、抱きしめる行為なのだろう。
 けれど、そこにあるのは、全身を棘で貫かれる苦痛だけだ。
 開いた口から、血が、溢れ出す。
 棘のいくつかが内臓に達したのだろう。
 大量のそれが綺麗な絨毯を汚してゆくのが、涙越しの視界に垣間見えた。
 そのままトオルの足から力が抜ける。トオルを抱きすくめる数多の触手にトオルの全体重がかかった。さして重くはないとはいえ少年一人分の体重である。力のかかる箇所の棘が深く一気に食い込んだ。
 喉の奥から、喘鳴がこぼれ落ちる。
 涙が、流れ落ち、新たな涙が眼球の前に盛り上がってくるたびに痙攣に連れて同じことが繰り返される。
 そんなことなど斟酌することのない神が、夜着の裾から新たな触手を伸ばしてゆく。他の触手よりすらいっそ禍々しい形状のそれの目的をトオルが知らないはずもないが、全身の痛みにそれどころではなかった。
 しかし。
 すぼまった箇所を割り開く性急な行為に、声になることのない悲鳴をあげて、のたうつ。動きに連れてなおさら傷が深くなってゆくことにすら思い至ることはない。内臓を傷つけられ体内から引き裂かれてゆくその痛みに、もういっそ一息にとトオルが思っていることさえも、知らないでいる。
 血の匂いが充満するその部屋で、トオルをえぐるその凶器が何度も引き抜かれては貫くことを繰り返す。
 硬くすぼまっていた淡い色彩のそこは暴かれた挙句その慎ましい姿を散らされ、暴虐の証にまみれていた。あと幾ばくもせずに文字通り引き裂かれるのだと、苦痛にのたうちながら、悲鳴をあげながら、その時を恐れずにはいられなかった。
 しかし、その夜は、何かが違っていた。
 遠慮会釈なく内臓を食い破るその凶器がトオルの胸に開いたあの黒い穴の真裏に達した時、それまでの痛みを凌駕する熱が解放されたのだ。
 ずるりともごぼりともわからない悍ましい音がして、トオルを貫く棘や触手が抜けてゆく。
 重い水音を立てて絨毯の上に倒れたトオルのからだには傷つけられた後は数多生々しく残されているものの、四肢は繋がっていた。
 光をなくした瞳が天井に向けられている。
 力なく仰臥するからだから白い湯気が立ち上る。
 そうして、どれくらい経ったのか。
 胸の穴だけを残して、トオルの傷跡が全て消え去った。元の生成り色の肌味を取り戻し、大きく震えた。
 腹が膨れ、すぐさま窄んだ。
 それが何度も繰り返され、やがて静かに窄んだままとなった。
 それらを見下ろしていた混沌の神がぐねりと大きくからだを捻った。
 それは、まるで全てが満足行くように運んだのを確認して喜んだかのように見えた。



 
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