たとえば、それが  7




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 糸切り歯がくちびるを噛み破る痛みすらもが湧き上がる怒りの燃料へと化してゆく。
 なぜ−−−と。
 うまく運んだ。
 なにしろ、王太子が味方なのだ。
 この目論見を口にしたのは、彼の方だったからだ。
 たとえ、雲上人である王侯貴族にとっては唾棄するべき行いであったとしても、互いの心に根ざしたこの想いだけは、真実であったからである。
「ヴァイスさま………」
と、王太子殿下の名を口にする。
 彼のために、罪を犯すことを自らに課した。
 そう。
 あの夜、初めて臥所を共にしたあの後、殿下から渡されたそれを首にかけることを自分で決めたのだ。
 炎のような赤い罪の証を握りしめる。
 創世の神の巫女の冷たい視線を思い出す。最初、ミュケイラは巫女たちに憧れていた。同い歳なのだ。学園に行けば、創世と終焉の巫女たちと机を並べて学ぶことができる。たとえ、教室が違おうと、学ぶ内容が違えど、同窓なのだということは、庶民である彼女にとって、ささやかではあるもののかなり大きな自慢の種であったのだ。しかし、ごく稀に身近で接する機会があるたびに、彼女は、巫女たちとの立ち位置の違いを痛いほどに感じたのだ。彼女たちは、ミュケイラを見下し、王太子殿下までもを蔑ろにしていた。
 あれは、神に選ばれたことによる、驕りであるのだろう。
 事実、雲上人の間だけで行われる月に一度の祭とは違う、年に一度の盛大な祭のその時、彼女たちに王でさえもが拝跪するのだ。
 人々の熱気に烟る正神殿の開かれた中庭で、その儀式は人々が見守る中で進められてゆく。
 その時は、王族でさえもが滝の下にある正神殿へと降り下るのだ。
 そうして、その時ばかりは、庶民たちでさえ、綺羅をまとった雲上人たちと同じ大地の上に存在することが許される。学園を卒業すれば、相見えることさえ適わなくなる尊い方達が年に一度だけ、滝の裾に集まるのだ。
 その時に王侯と巫女たちだけが身にまとうその絹に、ミュケイラは魅了されたのだ。
 なんて美しい−−−と。
 過去には、庶民からも巫女は選ばれたと伝わっている。
 なぜ、今、それが自分ではないのだろう。
 あの素晴らしい輝きを放つ、神が下賜されたという絹をまとってみたい。
 決して叶うことのない望みだとわかっていても、夢見ないではいられなかった。
 憧れ、焦がれ、いつしかそれは、ミュケイラの心に根付いてしまっていた。
 どうすれば、叶うのか。
 どんなに頑張ろうと、自分の力で叶えられるものではない。異国では、この国以上に手に入れることは難しい絹、それがアグリアメタクシなのだから。
 ならば?
 侯爵家以上に嫁ぐことができれば良いのだと気づくまでにそれほど長くはかからなかった。ただし、思いついたその時、ミュケイラは自分で自分を嘲笑った。そんなことが起こるはずもないのだと。
 起こるわけがない。
 最悪、侯爵に見初められたとして、庶民のミュケイラが愛人以上の存在になどなることができるだろうか。
 愛人では、アグリアの絹は纏えない。
 ならば?
 ならばどうすればいい?
 この焦がれる思いを抱いたままで一生を過ごせというのか。
 そんな思いを抱いたまま、ミュケイラは成長した。
 そうして、運命の出会いをしたのだ。
 創世の神の巫女。彼女の許嫁であった、王太子殿下と。
 出会いの最初は、最悪だった。
 王太子としての矜持を考えれば、あんな場面を見られたなど、唾棄すべきであったろう。
 王太子が巫女に拒否される場面などに、ミュケイラは偶然鉢合わせてしまったのだ。
 巫女は、ミュケイラなど一顧だにせず、ただ背中を向けて立ち去った。
 後に残されたのは、悄然とした、憮然とした、王太子とミュケイラだった。
 ミュケイラはどうすればいいのか、わからなかった。
 下世話に言えば許嫁に袖にされた、そんな王太子殿下にかける声など思いつきもしない。かといって、うなだれた王太子殿下を尻目にその場を後にするということもできなかった。
 立ち竦むミュケイラに気づいた王太子の表情は瞬間、朱に染まった。
 泣きそうな顔になったと思った。
 しかし、それは勘違いだったと思えるほど速やかに、眉根が寄せられ、双眼に怒りが篭った。
 それは、無様なさまを見られたことに対する羞恥を隠蔽するための怒りであったのだ。
 苛立たしげに近づいてくる王太子は、ようやく動くことを思い出したミュケイラの手首を掴み、手近な木の幹に手荒に押しつけた。
 痛みよりも、恐怖が先だったろうか。
 切り捨てられなかったことに対する安堵だったろうか。
 ミュケイラにはわからない。
 押し当てられたくちびるの感触だけが、いつまでも記憶に残った。
 おそらく。
 その刹那に、気づくことなく、ミュケイラはあっけなく恋に落ちたのだ。
 雲の上の王子さまに対する漠然とした憧れではなく、生身の人間である王太子殿下に、恐れ多いほどの熱を孕んだ恋情を。
 野望とも呼べないだろう、叶わぬ願望は忘れていた。
 だから、これを他人に邪とは呼ばせはしないと、ミュケイラは思う。
 常の傲岸さに似合わない悄然としたさまに同情したのであれ、見られたことに対する口封じとして彼が接触を繰り返していたのだとしても、きっかけはなんであれ、互いの心に確かに恋が芽生えたのだ。
 そばに居られるだけで幸せだと思った。
 まるで邪神のささやきのように王太子殿下が彼女を妻にしたいと言い出した時、とっさにありえないとうろたえるほどには、恋心は純粋だったのだ。
 平民の自分などが、王太子殿下の妻になどなれるはずがない。
 百歩も千歩も譲って、ようやく愛妾と呼ばれる存在が相応に違いない。それでも、平民には過ぎたる名誉であるのに。
 それなのに、王太子殿下は、『お前以外を妻とは呼びたくない』と彼女をかき口説き続けたのだ。
 もとより愛するひとのことばである。
 たやすく、ミュケイラは落ちた。
 そうして、初めて臥所を共にしたあの夜、どこからともなく王太子が持ってきたそれを受け取ったのだ。
 まさか、受け取った後になって、
『これは、ジャヴァ家の後継者の証なのだ』
 そんなことを言われるなど、思ってもみなかった。
 身分詐称の共犯者になるだなどと、微塵も考えては居なかったのだ。
 けれど。
 王太子殿下の妃になれると喜ぶ心の奥底から、これでアグリアの絹を着ることができる−−−と、いつの間にか忘れたと思っていた欲望がふつりと湧きあがってくるのを否定することはできなかった。



 これまではうまく運んできたというのに、なぜ。
 チリリとした痛みが、ミュケイラの眉間に皺を寄せさせる。
「これは、なに!」
 いったいどうして。
 珍しく大公が出かけたのを知り、ミュケイラは好機とばかりに屋敷の滝側の棟に回廊を渡り足を踏み入れた。
 本宅ではなく王都に滞在する時だけに使う屋敷だというのに、部屋数は数え切れないくらいある。これだけ広い屋敷だというのに、なぜ、滝側に部屋を準備してくれないのか。いくらでも空き部屋はあるだろう−−−と、苛立ちのままの行動だった。
 それに、あの少年。
 やせっぽっちの、弱々しげで男とも思いたくないあの少年。
 なぜ、彼には学園でまで侍従がつき従っているのだろう。
 あれは、大公令嬢という立場を得たミュケイラが受けるべきもののはずだ。それなのに、彼女は令嬢と認められてはいるものの、扱いはそれなりではあっても、放置されている。
 背後を確認すれば、まるで表情というものを現すことのない侍女が付き従っているが、あくまでも屋敷の中だけのことである。それはまるで彼女の行動を止めはしないものの見張るかのようで、逆に苛立ちが募ってしかたがない。
 ミュケイラが暮らす側の棟とは違い、滝の側の棟は一歩足を踏み入れただけで空気が違うのがわかった。
 静かで落ち着いた雰囲気が、ひんやりとしたほどよい湿度のなかに漂っている。
 そんななかにあって調度品さえも、違って見える。
 弧を描いた天井を天井画が彩り、壁では浮き彫りの鏝絵のようなものが陰影を描いている。
 喧しすぎず静かな品の良さは足元を彩る絨毯にまで及び、彼女がいる棟のどこか空々しいまでの豪奢さとは対比を描いていた。
 −−−確かに、こっちは趣味じゃないけれど。
 それでも、ミュケイラにも、この棟の趣味の良さこそが当主が王兄である大貴族の家族にはふさわしいのだということは感じられるのだ。
 −−−ファリスも確か出かけていたわよね。
 ファリスが仕えるあの少年は、ならば今はひとりでいるだろう。
 まさか、赤の他人に娘よりも多くの従者がつけられているわけがない。
 アディルもなにやら忙しそうであったのだ。
 ならば、今は、見咎められることもない。
 屋敷は静かだった。
 こちらはより一層滝に近いというのに、滝のたてる音など聞こえてはこない。
 −−−魔術なのだろうけれど。それにしても、屋敷全体にかけるにはどれほどの術者が必要なのだろう。
 魔術師は総じて高給取りだというのに、惜しげも無く雇い入れているのだろう。
 ひとつひとつ部屋を確認しながら、ミュケイラは、鼻を鳴らした。
 そうして、その扉に行き着いたのだ。
 黒檀の扉は両開きで、精緻な彫刻が施されている。うっすらと光っているのは、金箔の跡であるようだった。
「お父さまの部屋かな?」
 そう思ったのも無理はないだろう。それほどまでに、これまでの部屋とは隔絶の感がある扉であったのだ。
 ノックもせずに開く。
 大公は出かけているのだ。
 部屋の主は不在である。
 そう思ったからこそ、これまでとは変わらない行動だった。
 目の前に現れたのは、おそらくは侍女か侍従が控える部屋だろう。あるものといえば、壁を飾る絵画と絨毯、隅にある椅子と小さめの卓だけである。その向こう側に入ってきたのと同じような扉があった。それもまた無造作に開ける。
 そうして、
「これは、なに!」
 ミュケイラは叫んでいたのである。
 
つづく  HOME  MENU
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