たとえば、それが 8
*****
目に飛び込んできたのは、窓の外から差し込む日差しにうるさくないていどのきらめきを放つ室内だった。
白地を主色に真珠貝の内側のきらめきを擦りつけたような天井や壁に、金を差し色に使った黒檀の家具調度が配置されている。その床に敷かれた絨毯もまた壁や天井と同じ白であったが、こちらは金糸の細かな刺繍が施されていた。
どこかで見たようなと、首をひねるまでもなく、大公の執務室と同じ構想で設えられたのであろうことがわかる。
しかし、全体に女性的なのだ。
首を傾げていた。
大公閣下に夫人はいない。
大公に正妻はもとより愛人がいるという噂はない。
ミュケイラが知る限り、それは事実だった。
けれども。
この部屋は、使われている。
顕著ではないものの、日常的に使用されている雰囲気があった。
この部屋の主は、とても大切に扱われている。
それは、直観だった。
”娘”である自分などよりよほど。
それは、思っていた以上に衝撃だった。
血が下がってゆく。
全身が冷たく、寒ささえ感じた。全身が震えるのを止めることさえできなかった。
「お嬢さま?」
それは、無表情な侍女でさえもが思わず声をかけるほどのものであったようである。
思わずその場にうずくまり、床に手をつく。
そうして、
「これは、なに!」
眩暈を忘れて叫んでいた。
自分が今踏んでいるものが、まさか。
「どうしてアグリアの絹をこんなものに使っているのっ!」
叫ばずにはいられなかった。
絨毯が、決して狭くはないこの部屋の床を覆う白と金の絨毯が、アグリアの絹で製られているのだと、ミュケイラにはわかったからである。
「なんてこと………」
なんて………。
先ほど以上の衝撃に息が詰まった。
ミュケイラには、これほどまでに欲して手に入らない貴重な、貴重極まりない絹をいくら大公とはいえ、こんなものに使っているなどと信じられなかった。
絨毯だとて、庶民が手に入れるためには何年もかけて蓄財をしなければならないほど貴重な品である。それが密な織り目の絨毯ともなれば、庶民など一生お目にかかることなど不可能である。織子であればともかく。
とびのきたい衝動と踏みにじりたい衝動とがミュケイラの胸の中でせめぎ合う。
その結果、振りかぶった両手を絨毯に叩きつけていた。
何度も、気がすむまで叩きつけ続けなければ気が済まなかった。
そうして何度目かに叩きつけた時、
「だ、れ?」
途切れがちに掠れた声と共に、正面の扉が開かれたのだ。
この声の主が女性であったなら、たとえば大公にふさわしいと思えるほどの妖艶な美女であったのならば、こんな怒りは湧いてこなかったに違いない−−−と、ミュケイラは思う。
しかし、残念ながら、その時ミュケイラの目の前に現れたのは、美女ですらなく、ましてや女性でさえなかった。
それは、いつだったか学園の庭で彼女がヴァイスと共に糾弾した少年だったのだ。
痩せこけた、見栄えの悪いただの少年。
彼がアグリアの絹さえ身につけていなければ、彼女が気にとめることさえなかったろう程度の。
なのに、その貧相な少年は、ここでもなお、アグリアの絹と思しき素材の夜着をまとっていたのだ。
だからこそ、この部屋が、この踏むことを忌避したいと願った絨毯までもが、彼のためだけに用意されたものなのだと、ミュケイラにはわかってしまったのだ。
「なぜっ!」
「どうしてっ!」
「お前などにっ!」
腹の底からの憤りだった。
*****
ぐるりぐるりと濃紺と白の花が舞う。
そんな錯覚にとらわれる。
決して狭くはない部屋に十人の女性が舞っていた。
広がる木綿のお仕着せと白いエプロン(ポディヤァ)が彼女たちがその場で弧を描くに連れて風を孕み膨らみはためく。
目を回しはしないかと、倒れはしないかと心配になろう光景を、アヴィシャは無感動に眺めている。
やがて女たちの動きが徐々に緩慢なものへと変化し、ピタリと動きが止まった。
あれほどまでに激しい動きを見せていたというのに、どの女性も平然と止まり、アヴィシャの方を向いて佇んでいる。
「これで全てか」
「左様にございます」
一歩退いて控えるアディルが腰を折って応えた。
「これらで入れ替えは完了いたします」
「ならば、良い」
首肯付き、手にしたままであったナイフ(マヒエリ)をアディルに渡す。
「お手をおわずらわせいたし申し訳ございませんでした」
「なに、私のわがままが端緒よな」
ナイフとは別の方向で手遊(てすさ)んでいた白い骨をみやりながらアヴィシャが返す。
「しかし、本当に、そなたらは良いのか? これが最後の問いになろうが、真実、必要ないのだな?」
アヴィシャの褐色の瞳に真摯なものが宿る。
「はい。我らの決意は揺るぎませぬゆえ。ご配慮感謝いたします」
「なれば、あれのこと、頼むぞ」
もはやそう長くは保つまいが。
憐れな………。
なにをその脳裏に思い描いているのか、アヴィシャの秀麗な眉間に深い皺が刻み込まれる。
「御意のままに」
常には感情をあらわにすることのない表情をわずかに歪めながら、深くより一層腰を折る。
「こんな情けない主人に最後まで付き合うことはないのだぞ」
最後と告げたその口が、繰り言を紡ぐ。
「私にとってもファリスにとっても、閣下こそが第一義でありますれば」
「そうか」
白い骨を受け取り懐に収める。そうして上体をもとに戻した彼は、手を二度打ち鳴らした。
微動だにしなかった女たちが一斉にアディルを見た。
「持ち場に戻りなさい」
声ひとつしわぶきひとつ立てることなく、女たちが部屋を後にする。衣擦れの音と足音だけが、耳に大きく響いて聞こえた。
つづく
HOME
MENU