たとえば、それが 9
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ミュケイラと名乗った、アヴィシャの娘が部屋に押しかけてきて散々トオルを罵ってから五日がすぎていた。
繰り返されるミュケイラの言葉を聞き取ることは早口すぎることも手伝い、神の暴虐に曝されてのち日の浅かったトオルには不可能だったが、悪口雑言の類は雰囲気でわかる。
そういうものだ。
けれど、着ていた寝間着に手をかけられた時には、あまりの驚愕に何をされているのかわからなくなった。
動けなかった。
肌触りの良いやわらかで軽い布地は、それでも確かな強度を持って破られることはなかった。が、あの時の少女の行動は、まさに暴挙はでしかありえなかった。
襲い来る痛みに悲鳴が喉をくちびるを突き破りそうになった。
それを耐えきることができたのは、なぜなのか。
痛いと口にしないと決意していたからだとは思えなかった。
それでも、滲み出した脂汗に布地が肌に張り付いて、不快でたまらなかった。
そんな状況からトオルを救い出してくれたのは、いつ戻ったのか、ファリスだったのに違いない。
それまで空気のようにただその場に佇んでいた使用人の女性が、ファリスの登場で切れた発条が繋げられたと行った不自然さで動き出した。
そうして、トオルの耳にさえ無機質に響いてくる口調でミュケイラを窘めたのだ。
主人の娘に対するのにしては些か慇懃無礼なものに聞こえたが、それは当のミュケイラにとってもまた同じであったのだろう。
激しく食ってかかっていた。
それを諌めたのは、アヴィシャに伴われて部屋に入ってきたアディルであった。
アヴィシャは何も言わなかった。
不思議なほどに冷ややかな雰囲気で娘であるミュケイラを見ていただけだった。
アヴィシャの登場に、ミュケイラもそれまでの強気を収め、そそくさと部屋を出て行った。
その後を、侍女だろう使用人が追いかけてゆく。
ようやくのこと、知らずつめていた息を吐き出して、トオルは眩暈を覚えてその場で蹌踉めいた。
「辛かったな」
トオルを支えながらアヴィシャがやわらかく囁いた。その口調にも彼を見下ろす眼差しにも、先ほどまでの冷ややかなものは微塵も残ってはいなかった。
そのことに、安堵がこみ上げてくる。
あの雰囲気を自分に向けられたりしたら。
そんなことになろうものなら、自分はどうなってしまうだだろう。
絶望にとらわれてしまうだろう。
それでも、生きていなければならないのか? これまでと同じく、あの神の暴虐を受けての苦痛の生き死にを繰り返さなければならない毎日を生きてゆくのだろうか?
それくらいなら、いっそ。
いっそのこと、心臓が破れてしまえばいい。
二度と目覚めることのない、ただの、絶対の、死を自分は望むだろう。
そう、トオルは思い、震えた。
その震えを、脂汗でしとどに濡れた着衣と絡めて考えたのだろう、
「ファリス、風呂を。トオルが冷えたようだ」
アヴィシャがファリスに命じた。
「かしこまりました」
流れるような挙措と、やわらかな口調でファリスが諾う。
「それでは遅くなりましたが、何か甘いものでもご用意致して参りましょう」
アディルの提案に、アヴィシャが緩く頭を縦に振った。
ふたりがそれぞれの場所へと出てゆく。
「おいで」
残されたアヴィシャがトオルの手を取り、ゆっくりと窓辺のソファへと向かう。そのまま腰を下ろしたアヴィシャの隣に導かれて、大人しく腰掛けた。
透明な硝子窓に滝の飛沫が雨のように降りかかる。
陽射しを反射して遠く虹がかかっているのがとても綺麗だった。
*****
ぼんやりと鏡に映った自分の胸元を見る。
ある日気づいたのだ。
胸にあったあの穴が、なくなっていた。
いつからなくなっていたのか、できるだけ見ないようにしていたから気づかなかったのか。
ほっとする半面、何か良くないことが起きるのではないかと、悪い方へと思考が向かう。
そう。
悪い予感ほど良く当たる。
抉れたように肉の薄い腹に掌を当てる。
その下で、薄い皮と肉との奥で、何かがぞろりとうごめくような痛みを感じたような気がした。
「トオルさま?」
ファリスの気遣わしげな声と、鏡に映った彼の表情に、
「大丈夫だよ」
と、うっすらと笑った。
寝台の上に身を横たえて、暗い天蓋の内側を見上げた。
あの微かな痛みは錯覚ではなかった。
今も、からだの内側を何かがうごめいている。
少し前の、あの贄の日の神の様子がいつもと異なっていたこととこれとは、多分、関係があるのだろう。
怖かった。
怖くてたまらなくて、生理的な涙が眦を流れ落ちる。
それを袖で拭い、起き上がった。
ぞろりと、何かがまた動く。
ずっと前に見たスプラッタ映画か何かを思い出す。
腹を食い破って、産み付けられた何かのこどもが溢れ出してくるのだ。
ドアを開けて居間に移る。
窓から見上げれば、創世と終焉の神々が宿るという、磐座がそこにはある。
冴えた月の光が瀑布の動きに煌めきを放ち、薄暗い室内にささやかな光を灯し続ける。
ぞろぞろとずろずろと体内を掻き乱す何かの動きを堪えて、トオルはソファに腰を落とした。
今日の午後、ここにアヴィシャと並んで座っていた。
あの時の穏やかな心地良さを思い出そうとした。
アヴィシャに助け出されてからの記憶があれば大丈夫だと、怖いことなどないのだと暗示をかける。
「アヴィシャ・ヴァイジャ・ジャヴァ」
知らず彼のフルネームを口遊んでいた。
何度も繰り返す。
闇の中、ただそれだけがすがることができる唯一だとばかりに、呪文のように繰り返しつづけた。
どれだけの間、口にしていただろう。
まるで様子を伺うかのように止まっていた動きが、不意にそれまで以上の速度で、強さで、うごめいた。
声にならない悲鳴が、アヴィシャの名を奪い去る。
ずるりずるりと体内をうごめくきながら、少しずつ密度を増してゆくような気がして、トオルに恐慌が襲いかかる。
硬くつむった目頭から涙がにじむ。
奪われた名前を取り戻そうと、懸命に口を動かそうとした。
しかし。
ト、オ、ル−−−と。
彼の口が紡いだのは、自身の名だった。
音節ごとに区切り、初めて発音するかのように、慎重に名を呼ばれた。
両掌で耳を塞ぎ、首を横に振る。
聞こえない。聞きたくないと。
どうして−−−と。
自分の意思に反して再び自分の口が空気を震わせるのを意識する。
聞いて欲しいのだと。
聞いて、そうして、認めてくれと。
拒絶を表すために首を横に振り続ける。
けれど。
なんともわからない”それ”は、無情に宣告する。
ならば−−−と。
体内で密度を増す”それ”が、”それ”の一部が、首の内側をたどり、頭蓋の内側へと侵入する。
その怖気の走る感触に、トオルはからだをできるだけ小さくして耐えた。
肉が剥がされてゆくような気味の悪い感触だったが、これまで耐え続けた神の蹂躙を思えば、容易ではあった。ただしそれはトオルが比較対象とするものが常軌を逸しているだけのことにすぎず、通常であれば、犠牲者は簡単に狂ってしまうか壊れてしまうかすることだろう。
何かに、脳を覆われた気がした。
そうして、トオルは、”それ”の話を無理矢理に聞かされることとなったのだ。
つづく
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