たとえば、それが 15
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突然姿を消したトオルに、狼狽たアディルとファリスは、彼がアヴィシャの頭を抱え込むようすを茫然と見やった。
しわがれた悲鳴が、悲痛に響く。
声量が徐々に大きなものへと移り変わり、あのトオルさまがと、ふたりにとっては信じられないほどの絶叫を迸らせた。
しかし。
それらは、周囲には関係のないことだった。
周囲にとって、トオルは、ただの邪魔者でしかなかったからだ。
日々の不満を解消する、血湧き肉躍る、滅多にない尊い身分の者の処刑。
それを、邪魔した、もの。
民衆の顔つきが、目つきが、凶暴なものへと変わってゆく。
このままでは、トオルさままでもが害されてしまう。
ふたりが一歩踏み出そうとした時だった。
「捕えよ」
腹の底から絞り出したような声が、慣れたさまで、一声命じる。
それに、王族らを守っていた近衛らが動く。それにつれて、周囲の警戒に当たっていた騎士らがトオルへと近づこうとした。
しかし。
その光景をどう表現すればいいのか。
仰け反ったまま慟哭の叫びに喉を震わせていたトオルが不意と姿勢を正した。
「我に刃を向けるか」
その声音を、何に例えればいいのか。
まごうことなき若者の声。しかし、その響きの涼やかさに、糾弾の響きであるというのに耳を傾けたいとそう願う。
その場に会する者たち全てが、違うことなくそう思い、動きを止めた。
風が吹いた。
トオルの髪を、風が煽る。
煽られた髪が、見る見る伸びてゆく。
黒い髪が風に煽られるたびに伸び、たびに、色を失ってゆく。
そうして、やがて、滝に似た白銀の長い髪へと変貌を遂げた。
瞬くたびに、目の色が、不思議な光を宿してゆく。
そうして、やがて、黒い蛋白石(マブロオパル)のような緑や青を帯びた虹彩へと変化を遂げた。
基本はトオルのまま色が変わっただけだというその容姿の不均衡さに、息を飲んだのは誰だったのか。
嚥下の音が、その場の空気を砕いた。
「何をしている、捕えよ!」
ヴァイスの声に、再び騎士たちが動いた。
「慮外な」
ヴァイスと対極にある声音が一声響いた途端、騎士たちの動きが止まる。
「何をやっている」
癇癪を起こしたかのような怒気に塗れた声で喚かれても、騎士たちも思いもよらぬことだけに、脂汗を滲ませるばかりである。
業を煮やしたヴァイスが足取りさえも荒々しくトオルに近づいた。
「お前は、一体なんだ」
ヴァイスはトオルのことなど記憶に留めてもいない。ただいったいこの邪魔者はどこから来たのだという、苛立たしさだけで行動をしたのにすぎない。髪も目も、魔法を使っただけだろうと、安直に考える。
「魔術師など間に合っておるわ」
騎士らが動けないのならと、トオルの腕を掴み引き倒そうと伸ばした手が、軽い静電気を帯びたような反発を受けて、弾かれた。
「阿呆よな」
「何をっ」
思わぬ言葉に頬を怒りに染める。
「何も知らぬのか。この者が、これまでの我の贄が、どれほどの思いをしてきたのかを。その原因が王族のせいであるということを」
この者の唯一の安らぎであったものを奪い、無惨に踏みにじったことを、少しも、知りはしないのか。
「王族にその言葉遣いはなんだっ! 何を世迷言を言っている! いったい、お前は、何者だ」
癇癪を起こしたヴァイスに、
「何も教えられておらぬのだな」
呟き、その黒い蛋白石の瞳を未だ簡易な玉座に座したままの王へと向ける。
兄に似た鳶色の瞳が青ざめた顔の中で大きく見開かれ、食い入るようにトオルを見ていた。
肘掛を砕かんばかりに握り締めた両手を初め、全身が小刻みに震えている。
それは、不敬な態度に対する怒りからではない。王の表情から読み取ることができるのは、まぎれもない恐怖だった。
「まさか………」
呟かれつづけるそのことばに、いっそ悪戯そうな笑いに口角を歪め、
「そのまさかよ」
戯れに言ってのけたそのひとことに、
ひっ−−−とばかりに短く叫んだ王は、玉座から転がり落ちた。
己の醜態すら気づかぬふうに四つん這いに平伏した王に、周囲が驚愕に引き連れる。
「何卒………………なにとぞお許しを」
「遅いわ」
しかし、額付く王に吐き捨てるかのように告げられることばは、無情だった。
「我が憑坐となるは、代々王族の役目であったよな」
忘れたとは言わせまい。
そこな愚物に教えもせなんだとは思わなんだわ。
神子と呼ぼうが贄と呼ぼうが勝手ではあるが、我が求めるは憑坐。王族であればこそ、短命とはならずに済むものを。
−−−今代の依代は、そなたの息子であるはずであったのになぁ。
その小柄で貧相な男がそう言って、小さく笑いをこぼした。
ゾクリと、ヴァイスの後ろ髪がそそけだってゆく。
これは誰なのだ−−−と、動くもならずその場に立ち尽くすヴァイスが青ざめ、堪えようのない痙攣が湧き上がる。
これ、は。
この語りを受け入れるなら、これは、神なのだ。
贄として与えたものどもを蹂躙し尽くす、混沌の神。
そうして、これの言わんとすることは、本当ならば己こそが神子の名の下に贄として与えられるはずであったのだということなのだ。
あの惨たらしい日々を己が過ごすはずであったのだということを理解した途端、安堵を覚えた。
己の身代わりとなった贄の神子たちという存在に対する謝意のかけらも覚えることはなかった。
−−−神殿もなぁ。
喉を震わせる小鳥のような笑いに滲むのは、隠し切るつもりもないのだろう、残酷なまでの悪意だった。
「この憑坐が尤なるものであればこそ、時は必要ではあったがこうして憑くことが叶(かの)うた」
でなければそなたらは、不快な思いをせねばならなんだの。
我が見目をそなたらは殊に厭うゆえ。
もはや、首を横に振るのが一同にできる唯一のことであった。
全身をしとどに濡らす脂汗が体温を奪い、滝裏の温度とも相まって、全身が寒さに震えた。
−−−否定など要らぬわ。
冷ややかな笑いだった。
「しゃ、謝罪を」
どうか。
泣き叫ぶように口にする王に、
「謝罪のぅ」
そこ意地悪そうに、その黒い蛋白石のような眼差しで、王を見下ろす。
「どうか、どうか謝罪をお受け取りくださいますよう」
身も蓋もなく無様に蹲ったままで縋る王に、
「−−−−−−なれば、のぅ。ひとつ、この憑坐の願いを叶えてはくれぬか」
そこに込められた滴らんばかりの毒に気づいた者がその場にいたのかどうか。
考えることもせず、王は、ただ、承諾したのだ。
この憑坐が、何を考えているのか、何を望んでいるのか、そんなことはどうでもよかったのだ。
ただ、今、目の前にいる混沌の神の怒りを鎮めることさえできれば。
それで。
「そうか。叶えてくれるか」
トオルよ、これで、少しは慰めとなるか。
王が最期に聞いたのは、これまでのものとは違う神の悲哀のこもった声だった。
ポンとばかりに、あまりにも呆気なくそれが落ちた。
次いで、わずかの時差ののちに、赤黒い液体が、吹き出した。
「父上っ」
ヴァイスの悲鳴が、ミケイラの悲鳴が、近衛の、騎士の、その場に集うものたちの悲鳴が、空白のひとときを経てこだました。
つづく
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