たとえば、それが 16




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 空気が震える。
 空気を震わせるのは、その場に集ったものたちの感情だった。
 本能的な、恐怖。
 目の前で起きたことに対する。
 張りあげられた声ではないものの、この場の隅々にまで伝わった言葉の意味するもの。
 血を吹き上げながら、いまだ立ち尽くす王であったもの。
 その手に大公の頭をいだきながら端然と立つ、神の憑坐。
 いつまでもいつまでも終わりがないような血の噴水に、処刑の場は黒い赤に染まってゆく。
 止んだ風に、血臭は流れ行くことがなく、その場を塗りこめてゆく。その吐き気を促す鉄味を帯びた生臭さ。
 処刑の場と界を隔てたかのように、瞬きひとつ、咳ひとつさえも忘れてただ立ち尽くす一堂の次の行動の契機となったのは、アディルとファリスのふたりだった。
 ごくりと喉を鳴らし、彼らは、舞台へと駆けた。
 人波をひとかきするたびに、我を取り戻した者共が悲鳴を上げてそびらを返す。それは、その場に波紋を生じさせた。
 逃げ出すものたち。
 それに逆らうのは、アディルとファリスだけである。
 この場で殉ずるべきだとは思った。
 最初からそのつもりだった。
 殿さまは助かるつもりは豪ほども考えてはおられなかった。その彼の望みを叶えるためだけに、残る生はあるのだと、ふたりは思っていた。
 しかし、あの場にトオルさまが行ってしまわれた。そうなっては、救い出すことなど叶うまい。彼には微塵も感じられなかった魔力を思えば、あの不思議な力の発露は最初で最後の奇跡に違いない。そうなれば、彼には助かる術などありはしないのだ。
 そうふたりは思ったのだ。
 どちらをも助けることが叶わなかった、情けのない身である。
 しかし。
 まだ、トオルさまはそこにいるのだ。
 そう。
 神が憑(よ)りついたとはいえ、あれは、まだ、殿さまが「守れ」と命じられた少年なのだ。
 せめても−−−と。
 何も出来はしないに違いない情けのない身ではあるが、それでもせめて−−−と。
 結末によっては、間違いなく殉ずることを秘めながら、ふたりはその場へと急いだ。

 そうして。

「健気なものよな」
 ちらりとマブロオパルの眼差しをふたりへと投げかけ、トオルに憑りついたものはうっすらと笑う。
 血生臭い光景は未だ終わらない。
 腰を抜かした王太子とその許嫁を見下ろしながら、どうするかと考える。
 憑りつくことができなかった女とその血を継いだ少年。そのふたりが狂いながらも求めたものが、この頭の持ち主だとわかる。
 ひとのからだを借りればこそ、人間の心の機微というものを理解することが叶う。
 そうして、かつて己を受け入れ損ねた数多の贄達の心もまた。
 数百を下ることのない王族や平民達。神である身にその違いはさしてありはしない。あるとすれば、かつて古の約定により、王族の血を引くものをこそ憑坐として捧げるとあったということ、それに、その約定により、王族であるという矜持を持つものであればこそ彼を間違いなく受け入れることができるということだけだった。
 この頭の持ち主もまた、王族と呼ばれるものではあったが。トオルの前の少年もまた王族の血を引くものではあったが。
 約定は、血の噴水と化した王により狂わされたのだ。
 いや。
 思い返せば、それ以前、随分と前の王の時代より、この身はただひたすらに厭悪され存在をあやふやなものとされ続けた。
 故に、この在り方もまた、あやふやなものへと変貌を遂げたのだ。
 混沌の神と、狂乱の神と呼ばれ、王から王へと口伝としてのみ繋がれてきた。
 神の座から引き摺り下ろされ、無機質な岩の座に閉ざされて幾星霜。
 時折訪れる神子と呼ばれる贄は、このみてくれに怯えた。
 この身にいつしか生えた無数の刺が、怯えに拍車をかけたのだろう。
 怯えたもの達の恐怖が、心を狂わせた。
 それは怒りであったのかも知れず、悲哀であったのかも知れず、諦観であったのかもしれない。
 己を受け入れないのであれば引き裂いてやろうと、ただひたすらに贄どもの恐怖により全てが狂ったのだ。
 初めは、我が子に対する愛情ゆえであったのか、それとも、単に己を神として畏怖していなかっただけなのか。
 苦笑する。
 己のひとがましい反応のひとつひとつが、頓に新鮮なものと感じられた。
 それは決して不快なものではありはしなかった。
 頼りない細さの指を握りしめてみる。
 久方ぶりのひとのからだは、新鮮だった。
 トオルといったこの異世界から呼び出された少年を何度殺したことだろう。
 異世界の少年であるというのに、これまでの贄と何ら変わらないというのに、不思議と狂った心を癒してくれた。
 だからこそ、トオルにはそれ相応の報いを与えようと、考える。
 岩の座から解き放たれるきっかけとなってくれた少年である。
 少年だけではない。
 すべてに、報いを。
 背筋が逆毛だってゆく。
 これが自由だと。
 己の恣に振る舞うことができる素晴らしさに、混沌の神が高笑う。
 その禍々しいまでの響きに、王太子と許嫁が弾かれたように立ち上がる。
 似合いの一対だと、それを見ながら、混沌の神は思った。
 傲慢と無礼、強欲と嫉妬が絡まりあった、似合いの一対だ−−−と。
 意識せず、混沌の神は、舌舐めずりをしていた。
 それだけで、兵達が逃げ出す。
 一歩遅れて、王太子と許嫁が。
 逃げ出したところで、一向に構いはしない。
 混沌の神は、その名の通り、神であるのだから。
 そう。
 この国など、己の指先ほどのものに過ぎない。
 だけに、その小さなものに閉ざされていた屈辱と憤怒がいかばかりか。

 戻ってこい−−−と。

 ここへ−−−と。

 創生と終焉の神の声が脳裏に響く。
 そのようなことになど囚われず、戻ってくるのだと。
 厚い岩盤を素通りして、空高くまだ白い二つの月を見上げた。
 そのはるか向こう側に輝く灼熱の輝きこそが−−−本来の己であるのだと、本性を思い出す。

 いますこし−−−と。

 混沌の神は、かけらほどの己を解放した。
つづく  HOME  MENU
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