こう言ってよければ、なにも覚えてはいなかった。
走馬灯よりも素早く、ただの色彩と化すなにかが常に脳裏を過り消えては現れるをくり返していた。当然、俺はいつも熱っぽかったし、ベッドからはなれることもできなかった。
自分の名前すらわからず、目の前の“もの”さえも認識することが困難だった。
“それ”がなになのか、ここがどこなのか。
総ては暗い、それでいて色鮮やかな色彩の彼方だったのだ。
ようやく、“それ”がなんであるのかを認識できたのは、どれほど経ってのことだったろう。
脳裏の色彩は夢となり、起きている時に現われることは稀となった。代わりのように夜の夢は、俺を苛み苦しめた。なにより、それが実際にあったことだと、一旦認識してしまえば、否定することはできなくなった。
「なぁ、アルトロメオ」
俺を死の直前に、バートが暮らしていた小さな家に運んだのは翼蛇であるアルトロメオだった。
翼があるにもかかわらず、“彼”は、地を掘り、這いずり、俺を穴へと引きずり込んだ。それは、まさに間一髪のことであったのだ。
一瞬、“彼”の判断が遅ければ、俺は、現れた王に連れ戻されていただろうから。
俺の“幼い”腕に、アルトロメオが絡みつく。肘から下に、彼の半身がだらりと垂れる。
アルトロメオのつぶらな瞳が、俺の目を覗き込む。
その目に映るのは、幼いこどもの姿だ。
そう。
今の俺の姿だ。
まるでアルトロメオが守り通したかったバートの面影をどこかに宿しながら、それでいて俺、レキサンドラでしかない、幼い姿をしていた。
歳は、五歳ほどだろうか。
これは、おそらく、龍族のみがその生涯に一度だけ使うことができると聞いたことのある、再生の魔力によるものにちがいない。
だとすれば。
アルトロメオは、その実、龍へと再生できるに足る歳月を経た翼蛇であったのだろう。しかし、その再生のチャンスを、俺なんかの為に無に帰したのだ。
「ばかやろう!」
俺など死んでよかったのだ。
心は勇者に惹かれながら、身体を王に開かれる。そんな、どっち付かずのこの俺など。
「大丈夫ですよ。私は、前王の最後に安らぎを与えてくださった御子の為にこの一生を捧げようと、決めていたのですから」
これは、我が一族の総意です。
と。
そう付け足すアルトロメオの姿は、ひとりの男だった。
アルトロメオが俺の腕からはなれたと思えば、その姿がぼやけていったのだ。
黒い龍の王であるはずだったアルトロメオは、はうねる金髪の茶色の目をした姿の好い男の姿をして、俺のベッドの脇に膝をついた。
俺を王に見つからないように育てるには、龍の王としての力を持つ彼であれ、厭う人の姿をとって町に出るしかなかったのだろう。
「本っ当にっ、馬鹿だ」
お前も、龍族も。俺なんぞの為に、その貴重な再生のための力を。
喉の奥が熱くなる。
鼻の奥が、目頭が、痛い。
俺の目からこぼれ落ちたのは、雫に濡れた、ふたつぶの真珠だった。
「御子はなにも憂うことはございません。これは、我らの勝手にしたこと。我らの心からの親愛の情なのですから。さあ、思う存分私をお使いください」
アルトロメオが両手を広げた。
「ありがとう」
だから、俺は、もう、礼を言うより他なかったのだ。
そうして、訊ねた。
「どうなったんだ」
戦いはどうなったのか。
王は、どうしたのか。
俺の部下たちは。
そうして、なによりも、俺が恋した勇者は。
俺は、訊かずにいられなかった。何より、あれから五年が過ぎているということが、不安をかき立てたからだ。
今の俺は、煉瓦造りの小さな貸し部屋にいるらしい。
「………そうなのか」
あの日。
俺が、俺の意志で勇者の剣に貫かれた後。
数度目の落雷の後に、王が勇者の前に姿を見せたのだと言う。
王が人前に現われるなど、彼に恭順を表している人間の王の前くらいだ。それすら積極的には行ってはいない。幾度招かれようとその内数度は断るのが王のスタンスだった。
それが。
招かれもしないというのに、勇者たちの前に。
「勇者たちは、動けなかったろう」
それは真実だった。
聖魔以上の、神聖をまとう魔神である王の前に、彼らでは、胆力も、なにもかもが未熟すぎる。
「当然でございましょう」
魔王の神聖に当てられては、只人など動くことは愚か、声を発することさえできません。
彼の配下の龍が見ていたのだと言うあの日のあの後のことは、彼の配下の龍が見ていたのだと言う。そんなアルトロメオにも俺にも知る術のなかった出来事を、まるで物語でもひもとくかのように、彼は語り聞かせてくれた。
「今の王は、城にこもってはおられません」
あちらこちらの戦いに積極的に参戦なさっておられます。
「人間側は敗色が濃おうございますよ」
そろそろ、決戦のころあいと、王も時を読んでおられましょう。
そう言って、アルトロメオはにっこりと微笑んだ。
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