狼は眠らない 2




≪そ の 二≫


 気がつけばそこは霧の中。
 ミルクのように白い大気。
 喉が痛くて苦しくて、まりあは激しく咳き込んだ。
 上半身を起こして、周囲をぼんやりと見渡す。しかし、朦朧としたまりあの目に入るのは、霧だけだった。
 黒目がちの大きな瞳。そのせいで、いつものまりあの雰囲気は、小鹿めいている。しかし今、白目部分は赤く充血して瞼が腫れぼったい。ふっくらとなめらかな象牙色の頬には、涙のあとがうっすらと黒ずんでいる。それらがまりあの印象を痛々しいものにしているのだった。
 突然襲いかかってきた寒気に身震いし、まりあはふらりと立ち上がった。スニーカーが片方なくなっていることにも気づかない。まだどこか夢の中にいるような。そんなおぼつかなさのまま、まりあは無防備に歩き出したのだ。
 霧の奥へと。

 まりあの細い首には、くっきりと手の跡が浮かんでいた。

 彼はもう永いあいだ独りだった。かつて彼の凍てついた心を溶かした存在すら疾うに亡い。
 森には濃い霧がたゆたっている。まるで彼の心に感応するかのように。もしくはすべてを拒絶するかのように。
 彼は森の奥深くで、ただ過去を、今は亡い彼の女を想い永らえていたのだ。
 心に負った癒えない傷からは、目に見えない血が流れていた。それは、数百年のあいだ癒えることがなかった。今も、まるで真新しい傷口のように生々しく、血をにじませている。
 動くたび四肢にからみついてくる霧は、とろりと濃厚だった。彼の心が流しつづける血のように。
 霧は森に分け入る者たちを惑わせる。そうして、生命をも奪い去った。
 彼は人間を憎悪しつづけていた。
 本当に永い永い時を、あまりにも憎みつづけてきた。そのせいで、自分の心の大半を占めている感情を意識することもできなくなるくらいだったのだ。
 時折り、霧に惑わされた人間の死が、彼のもとへと届けられることがある。しかし、届いた断末魔の気配にも、彼の心が動かされることなどなかったのだ。
 森は重い霧に鎖されている。
 それはとりもなおさず、彼の心が病んでいる証でもあった。
 時間など意味を為さない。
 陽が昇り陽が沈む。ただそれだけのことでしかなく、永劫の苦痛のようでもある。繰り返す自然のいとなみ。しかし、それは、彼を、彼だけを置き去りにして去ってゆくばかりなのだ。まるで終わりのない刑罰のような日々。訪れることがあるのかないのか、彼自身にもわからない死の瞬間を焦がれ待つ。
 彼の女の最期のことばに従いながらも、自らの死を待ち焦がれる。
 彼の女の墓を守りながら。
 墓を守り、彼の女の愛したものを守る。
 城に秘められている財宝を求めて入り込んできた人間を、追い払う。――彼がここに存在する理由。だから、追い払った人間が道に迷い餓死しても、気にもならなかった。
 そんな日々の連なりが、彼をいつしか疲弊させていたのだ。
 かすかな水音が響いている。
 紅い薔薇のはなびらが、ほろほろと散る。
 それは、彼の女の生まれたことを喜んだ彼の女の父親が求めたものだと、彼は知っていた。いつだったか、彼の女が話してくれたのだ。
 この紅い花は、遠くアラビアから持ち込まれたのである。
 五弁のはなびらがまるで彼の女の流した血のように、地面に降りそそいでいる。
 かつて………
 彼の女の架けられていた火刑の杭の下には、油に濡れた薪の束が、山と積み上げられていた。
 忌々しい銀の鎖。 鎖にこめられていた狂的な信仰。それが彼をきつく縛りつけていた。痛いほどに戒められていなければ、もう少し早く彼の女を救い出せていただろう。彼の女を連れて、どこか遠い国へ逃げることもできたにちがいない。はるかな昔彼が祖国から逃れたように。――そう。彼の女は生き延び、そうしてほほえむことさえできていたろう。
 しかし、彼が現実に鎖を断ち切ることができたのは、薪の山に火が放たれてからのことであった。
 自分の感じた痛みなど、彼の女の受けたものに比べれば微々たるものでしかなかったのに。
 ―――遅すぎたのだ。
 華奢で繊細な動きを見せた白い指。手足の指という指に爪はなく、骨さえも砕かれていた。赤黒く腫れあがり、灼熱を帯びて。みごとに艶やかだった黒髪は、沸き立つ油に煮溶け、ざんばらに乱れていた。ありとあらゆる拷問の苛烈さは、彼の想像をすら凌駕するほどのものだった。
 なにも、できなかったのだ。
 その思いは後悔となり、後々まで彼の心を責め苛みつづけたのである。
 彼の女はあの日、愛した紅い薔薇の寝方でこときれた。彼が運び横たえた城の庭で、最期のことばを告げたのだ。いつものように、まるで人間に喋りかけるような口調で。
『いつまでも待っている。だから、自殺はしないで』
 と――――。
 彼の女の亡骸を一株の薔薇の根元に埋葬した。紅の花々が、彼の女の慰めとなるように。それは、彼の、せめてもの願い。
 そうしてどれだけの歳月が流れていったのか。彼の女の骸が眠る場所は、薔薇の蔓に覆われてしまった。今では彼にも、確かな場所を指し示すことは難しい。
 ギリシア風の白い円柱。大理石で作られた、十二本の柱にまで、薔薇は侵略の手をゆるめてはいない。上へ上へとのたうち登る蔓は、上部の、柱と同じ素材の四角の管へと届く。
 管は柱をすべて繋ぎ、水を水源から引いている。そうして、水は数百年間絶えることなく、丸く囲まれた泉水へと、注ぎ込まれつづけている。
 泉水の周辺と彼の踏み固めた径を除いて、庭のほとんどを赤い花が占拠しているのだ。今もまだ、彼の女の骸を養分に、赤い花々は貪欲なまでの生命力を見せて勢力を広げつつある。いずれ、城の中にまで、花々は侵略を開始するのだろう。
 石造りの城の内部は梁が剥き出し、大小の石があちこちに転がっている。床には雑草が繁り、蔦のはびこる壁は崩れかけている。蔦のおかげでかろうじて強度が保たれている箇所すらあるのだ。しかし、荒れた内部にも一箇所だけ、石と雑草がきれいに取り除かれている場所があった。庭の薔薇を一望にできる一角に、肖像画が立て掛けて置いてある。まるで祭壇のように見えるのは、枯れた花のせいだろう。顔の消された肖像画には花が捧げられているのだ。
 所々焼け焦げ顔のない肖像画は、もちろん彼の女を描いたものである。
 鋤や鍬や松明を手に、ありもしない恐怖に狂い暴徒と化した村人が大挙してきた。村人は腐りきった異端審問官(インクヴィズィートァ)の手先に扇動されて、シュロスヘリン―女城主―の城を襲ったのだ。
 彼の女を『魔女だ』と告発したのは、実の叔母夫妻だった。
 魔女の莫大な隠し財産を求めて、血走った目つきの村人が、城のいたるところを破壊した。
 あの時、魔女の肖像画という理由で集められ、火をつけられたのだ。救い出せた絵は、これだけだった。
 彼の女を偲ぶ唯一のよすが。しかし、これからわかるのは、彼の女の美しい黒髪だけでしかない。腰までのまっすぐな黒髪には、彼の女の愛した紅い薔薇の花がよく映えたものだった。
 庭から紅の花を咥えてきた彼の動きにつれて、花々の残骸が蹴散らされる。  ぽそりとかすかな音をたてて、新たな一輪が落ちる。ツンと花のかおりが立つ。その涼やかさに惹かれるように、彼は肖像画の前に身を伏せた。そうして、彼はいつまでも飽くことなく、絵を見つめつづけるのである。
 ―――しかし、今や彼は肖像画の前から動かない。瞼をもたげることさえもが億劫な睡魔が、彼をとりまいて久しかった。このまま地中深く、もしくは空気の中にでも、溶けて混じってしまいたい。それが、今の彼の望みでもあったのだ。

 霧がざわめく。

 久方ぶりのひとの気配。

 待ち焦がれつづける消滅の刹那は、訪れない。
 とろとろとしたまどろみが、揺さぶられる。彼は薄目を開け、けだるげに鼻をひくつかせた。
 ――――辿りつけるものなら、来てみるがいい。
 昔は、死んでゆく者の気配を数えていたこともある。
 霧に道を失った者の戸惑いや恐怖や絶望が、何よりも心地好く思えたものだ。しかし、所詮は暇潰しにすぎず、百を数えるまでもなく飽きてしまっていた。数えるのも億劫なほどだった。今はただ、霧の伝えてくる死の気配が、彼の心の奥底に、かすかな喜悦を灯すだけでしかない。
 稀のこと、剣を抜いて向かってくるものもいた。もっとも、ことごとく彼の敵ではなかったが………。うるさい蝿を追い払うように、ただ本能のまま一撃するだけでよかった。彼の振るう鋭い爪は、ほんの一閃だけで侵入者の生命を奪うことができるのだ。
 ここへと来ることができないものならば、少数の例外を除けばどうせ餓えて死んでしまう。彼の手にかかろうがかからずに済もうが、大多数の侵入者の命運は決定しているのだ。
 ならば、目覚める必要もない。
 全身にわだかまる睡魔に、彼は瞼を閉ざした。途端、睡魔が押し寄せる。
 せめて夢の中ででも、彼の女の面影を思い出せればいい。たとえ片鱗でもかまわなかった。
 カサリ――――
 やがて、下生えを踏みしだく音にまざって乾いた木の枝の折れる音が聞こえた。
 ピクンと、彼の耳が揺れる。
 大気にかすかな波紋が刻まれてゆく。
 目に見えることのない波紋は、再度、彼の眠りを乱した。
 次に届いたのは、軽い足音だった。
 波紋に波紋が重なって、大きく広がってゆく。そうして、ひとの倒れる音が、彼の眠りを完全に破ったのだ。
 彼の長い鼻面に皺が寄る。
 城の中と庭にだけは、霧もたちこめてはいない。晴れてさえいれば、陽光が惜しみなく降りそそぐ。  眠りは戻ってこなかった。
 不機嫌に頭をめぐらせた彼は、眠りを妨げた存在を見出した。それは、壊滅したも同然の厨房から広間に通じる狭い廊下に倒れこんでいる。
 彼の鼻面に刻まれている皺が、ふっと解けた。
 オスの本能を騒がせる、メスの匂い。
 瞼が持ち上がり、眇められていた目が大きく瞠らかれる。彼からは、ほんの少し前までの不機嫌さが形をひそめていた。
 凍えきっている心がかすかに揺らいだのは、侵入者が女だったからなのか。―――いや、違う。女の乱れた短い黒髪が、彼の記憶を刺激したのだ。
 こびりついていたわずかばかりの睡魔は、完璧に失せた。
 心のままにゆたりと起き上がった彼は、女に近づいた。
 死んではいない。
 女というには幼さの残る、まだ若い少女。それは、奇妙な身形をしていた。少なくとも彼にとって、少女の服装は異様に感じるものだったのである。
 彼の目に映る少女の格好は、とてもみすぼらしいものだった。
 暗い紺色地の上着は、ごわごわと硬い布質で、まるで穀物を入れておく袋のような布だ。その下の、伸縮のよい白い服のやわらかさがせめてもの救いだろう。何よりも彼の目を剥かせたのは、スカート丈の短さだった。上着と対らしいスカートは、よりにもよって膝丈なのだ。剥き出しの膝から下は、泥で汚れたうえに木に引っかかりでもしたらしい。擦り傷や切り傷、打ち身の痕などがあちこちに散っている。白い靴下は破れ、不思議な素材の靴は片方がない。上から下まで、彼がこれまでに見たことのない服装なのだった。
 顎の長さで切り揃えているらしい髪の毛。
 これだって、世俗の少女にしてはおかしいのだ。この国では、断ち切った短髪は、修道女のものではなかっただろうか? 少なくとも、彼の覚えている限りは………。かつて彼の女は拷問のために髪を失った。しかしそれ以前には、決してばっさりと切り落としたりはしなかったのである。
 比べることを、やめられない。
 装いにしても、絹織物や上質の朝や毛織、天鵞絨や毛皮やレェス。肌触りもよく豪奢な衣装を着ていた。金糸銀糸はもちろん、宝石までも用いた手のこんだ刺繍がほどこされて。裾を長く引くスカートも胴着も、落ちついた色合いのものが多かった。しかし、それとて、この少女に比べればもう少し色彩豊かだったはずである。なによりも、素足を人前に曝したりはしなかった。閨以外では……。
 長い鼻面で、地面に伏せたままの少女を仰のかせる。  瞬間、どきり…とした。
 彼の前脚もないのにちがいない、細い首。仰のいた白くなめらかそうな喉に、人の手の跡が赤く浮かびあがっている。
 迷いこんできた少女。
 しかし、これは少女の本意でなどなかったろう。それくらいなら想像できる。この少女を殺したと思い彼の森に捨てた輩がいるのだ。そうでなくて、どうしてこの少女の首に手の跡が残されたりするだろう。

数百年もの間、彼の女の思い出しか求めなかった彼の心に芽生えたもの。この時それはまだ、何ともわからない予感めいたものにすぎなかったのだが。

 まりあが目覚めた時、周囲は暗く、深いだけの闇が満ちていた。
 自分の手も見えない絶対の闇。
 闇は恐怖だった。いつだって。
 ――そう。これまでに泊まったホテルの部屋は、どうしてなのかすべて薄暗かった。照明が暗くて……。日本の旅館やホテルも暗いといえば暗かったけれど。やはり、省エネ対策なのだろうか―と、考えたこともあった。それでも、日本の一般家庭の照明の明るさに馴染んでいるだけに、頼りなくて仕方がなかったのだ。
 まりあは独りで部屋を取っていた。気は楽だったけれど、夜は怖かった。ボリスを連れてくればよかったなどと、毎晩のように思った。そうできていれば、こんなにも怖くなんかないのに。ボリスのぬくもりが恋しかった。
 影が澱んだ部屋の隅、何かが自分を見ている。
 ひとではないものが。
 もしくは、かつてはひとであっただろうものが。
 それが、まりあには恐怖だった。だからといって泣き叫ぶこともできない。まりあはいつも、必死に無視していた。―――泣き叫んだからといって、どうにもならない。理解してくれていた父や昴一、周子にも、同じモノは見えないのだ。
 多忙な父は留守がちで、見えるモノに怯えて真純に罵られた。そのヒステリックさは、まりあを萎縮させるのに充分だった。
 気味の悪いことを言う嘘つきだと決めつけられるのは、辛いことだった。だからまりあは、自分が見てしまうモノについて、極力喋らなくなったのだ。
 生まれてから十六年。ものごころついていなかった頃はともかく。ずっとこの奇妙な力と折り合いをつけようとしてきた。力といっても、見えるだけだったけれど…。なのに、どうして慣れることができないのだろう。まりあ自身不思議でならないのだ。
 そうしてもう一つ、十年前も今もわからないことがある。父がなぜ真純を選んだのか。秘書としては有能だったかもしれない。けれど、彼女は記憶の中の母とは正反対だった。きびきびと現実的な真純が、母になる。当時六歳だったまりあは、戸惑わずにいられなかったのだ。
 別段意地を張っていたわけではなかった。それでも彼女を“ママ”とも“おかあさま”とも呼ぶことはできなくて………。気まずさはずっと、いつまでも消えなかった。そう。もとよりさして多くもなかったチャンスを、ことごとく逃がしてしまったせいだ。そのうえずるずると時間だけが過ぎた。そうして去年、父までもが、逝ってしまったのだ。
 呼べるようになっていれば、真純との関係も少しは違ったものになっていたのだろうか? そんなことを考えないわけではなかったけれど。
 父が死んで、真純が出てゆくかと思った。けれども、真純は出ては行かなかった。少しは仲良くなれるだろうかと期待したが、それは空しすぎるものでしかなかった。自分に愛情なり愛着なりがあるわけではないのだと、思い知らされただけだったのだ。
 真純が出てゆかないのは、父の遺言のせいだろう―――と、昴一は言う。鏡原家の後継ぎは自分だけで、財産のほとんどは真純の自由にはならない。ただ、後見人として残るなら、そのかぎりではないらしい。だから出てゆかないんだよと、昴一は言うのだ。
 ああ、そうだったのか―と、悲しいくらい簡単に納得してしまう自分がいた。
 もしも真純が俊雄と結婚するなら、彼女は鏡原真純ではいられない。その場合分与される遺産の額が不服なのにちがいない。でなければとっくに俊雄と結婚しているよ―と、昴一は主張を譲らないのだ。
 夏休みまでまだ二ヶ月近くあった五月末のある日、真純がヨーロッパ旅行を提案した。 
 突然だったけれど、父が死んでからは、真純の提案は、決定でもある。それに、これは、父がまりあに約束してくれていた旅行でもあった。――そう。ずっと、ドイツには来てみたかったのだ。
 昴一は部活があるからと、連れて行かないと言われてショックだった。けれど、反対をして機嫌を損ねるのが、どうしようもなく怖かったのだ。
 あの時の真純は、上機嫌だった。それは、一時彼女から遠退いていた俊雄が戻ってきたからだったのだろう。
 とにかく、まりあは俊雄が嫌いだし、怖いと同時に気持ち悪くて。たとえ真純の機嫌がメルトダウン寸前になっても、彼が来ないでくれるほうがはるかにマシだったのだ。
 もちろん、思うだけで口に出しはしない。言ってしまったら最後、真純はキレてしまうにちがいない。けれど、まりあにはいつだって見えていたのだ。――口のはしから血を流している顔色の悪い女のひとが。いつも俊雄の背中に負ぶさるようにひっついていて、時たま目が合えばニヤリと笑いかけてくる。その脅しかけてくるような意地の悪そうな表情が、まりあの背中に鳥肌を生じさせるのだ。彼女が死んでいるということだけが、まりあにわかるすべてだった。

 真純から落ちつきが失われたのは、フランスからドイツに移ってである。 目に見えてそわそわしはじめた。そうして有名な、名城めぐりの途中で、まりあは首を絞められたのだ。

 真純の繊手が首を締め上げようとする。
 きれいなデザインのつけ爪が、キリキリと皮膚に食い込んでくる。
 面白そうに見下ろしてくる俊雄の歪んだ顔が、霞む視界に映っていた。それこそが、真純の鬼のような形相よりも恐ろしくてならなくて………。
 俊雄の背中で、青白い女がケラケラと高笑いしている。
 それらが、気を失う寸前にまりあが見た光景のすべてだった。

 殺されるなんて。 まさか。
 真純が………。
 昴一の心配が当たってしまった。
 あまりにも思いも寄らないことが、悲しいような辛いような、頼りない気分にさせるのだ。
 ポーチに入れたままの厄除けのお守りが脳裏をよぎる。
(約束を破ったことになんか…ならないよね? でも、昴一ごめんね。わたし……死んだのかなぁ…)
 殺されるほど邪魔に思われていたなんて、考えたこともなかった。
 決して真純のことが好きだったわけじゃない。でも、こんなにまで憎まれていたのだと思えば、ショックも過ぎてしまう。
 どこかぼんやりと現実味を失くした感覚のままで、
(わたしは、死んだ……? 殺されてしまったの?)
 と、思った。その瞬間、まりあの頬を涙がすべり落ちたのだ。
 冷えきった頬には痛いくらいの、熱い涙だった。
 ちりちりと、冷たくなった全身を温めるように、涙はやむことなくあふれつづける。そのぬくもりが、こわばりついたまりあの心を癒そうとするのだ。
 恐怖よりも悲しみのほうが強かった。
 悲しくて淋しくて、まりあは声を抑し殺して泣いた。
 どれくらいの間泣いただろう。しゃくりあげる苦しさが、自分が死んでいるのか生きているのかわからなくさせる。
(死んでいるはずなのに………こんなに苦しいの…)
 疑問を感じた時だった。
 かすかに何かの気配を感じたような気がした。
 闇が、揺れる。
 ぞわりと、まりあの全身に鳥肌が立つ。
 チリチリリと、後頭部の髪が逆立ち、震えるほど過敏になる。
 まりあは、息をするのも忘れていた。
 全身が震える。
 何かの気配が濃密になってゆく。
 何か、もしくは誰かが近づいてきているのだ。
 まりあは、ただ緊張していた。
 動くことすら思い浮かばない。
 いったい何が近づいてきているのか。
 おしよせる波のような、闇の気配。
 カシカシと硬いものを引っ掻くような音。 
 忍ばせた規則正しい音は、馴染みのあるものだった。少なくとも、それは、ボリスの足音に似ていた。ボリスの爪が、歩くたびに床を引っ掻いてしまう音に。
 だから、まりあはほんの少しだけだけど、緊張を解いたのだ。
 しかし、犬の爪が床を掻いているような音は、唐突に止んでしまった。
 知らず耳を澄ませていたまりあの耳に、ひたりと素足らしい足音が届いた。
(ひと? ……どうして?)
 ゆるみかけていた緊張が、再び凝縮してゆく。
 ひとのほうが、怖かった、
 やがて足音が止み、空気が掻き乱された。
 突然、ぼんやりとあたたかみのある光が、まりあの目を眩ませる。
 闇に灯ったオレンジ色の火が揺れる。
 炎が近づいてくるのを、まりあは食い入るように見据えていた。
 ほんの間近にまで炎は迫り、ぴたりと止まる。そうして、ようやく、ひとがそれを持っているのだとわかったのだ。
 炎を挟み、逆光に翳る人影は、男のものとも女のものともわからない。
 炎が揺れ、影が踊る。
 ようやくまりあは、自分が広い部屋らしき場所にいることを知ったのだ。
「アウフヴァッヒェン ズィ? (起きたのか?)」
 心地好く落ちついたトーンの、男の声。しかし、何を言っているのかまではわからない。おそらくはこの国のことばだろう――と、見当はついたけれど。
 まりあは、わからないと首を振って見せた。
 そのころには、自分が死んではいないらしいとわかっていた。しかし、わかったからといって喜んでいいのかどうか、まだ判断がついてはいない。
「ヴィーハイセンズィ? イッヒハイセウィーベルレムゥレン。ヴィーハイセンズィ? (名前は? オレはウィーベル レムゥレン。君は?)」
 何度となく同じことばの羅列がかけられる。そのことに気づいたのは、しばらく後のことだった。何度目かにようやく、名前を訊かれているのではないか? と、察した。それは、あくまでもなんとなくだったけれど、正解らしい。だから、
「まりあ………」
 と、呟くように口に乗せてみたのだ。しかし、それと同時にまりあの緊張は、突然切れた。張り詰めきった糸が爆ぜるかのように、まりあはことんと意識を手放したのである。

 夜目の利く彼にとって、闇は慕わしい友人だった。もとより、夜闇に沈んだ城を歩くのに明かりの必要はない身だ。しかし、すすり泣く声の主を徒に怯えさせる気にはなれなかったのだ。
 そんな自分の感情に戸惑っているのは、彼自身だった。そう。これまでならば、城の中に入り込んだものは、すべて追い払うか殺してきた。それなのに………。
 彼は炎を灯した。
 念じるまでもない。簡単なことだ。
 おそらく、炎が何もない宙に浮かんでいることを知れば、少女は恐れるだろう。しかし、その心配はないはずだ。彼は、人間の視力が闇に弱いことを覚えていた。
 彼の記憶の通りだった。
 少女は食い入るようにして炎を見つめていた。
 少しだけ眇められた瞳に、きらりと炎が反射する。
 するりと彼の口を突いて出たのは、人間どもが自分を呼ぶようになった名前だった。
 彼の女が自分につけてくれた名前は、ひとの口を経てゆくうちに、変貌していた。そうしていつしか、ウィーベル・レムゥレン―邪悪な幽鬼―と、呼ばれるようになっていたのだ。
 それは、忌々しい呼称だった。
 しかし、数百年もの間、他に彼を指し示すものといえば、モンストゥルム―怪物―だけだったのである。
 彼が辛抱強く同じことばを幾度か繰り返した後で、ようやく、
「MARIA………」
 と、少女は応えたのだ。
 知らず、彼の全身が大きく震えた。
 それは、今の今まで思い出せずにいた、彼の女の名前だった。そう、それが、彼の記憶の襞からよみがえった瞬間だったのだ。
 思い出してみて、それがよくある名前だったと認識する。しかし、それこそが、まさに、彼の女の名前であったという事実の前には、そんなことはどうでもよくなっていた。かつて、数百年のむかし、凍えきっていた彼の心。それは、永劫に融けはしないだろうと思われた。それほどに硬く凝りついていたのだ。そんな彼の心を動かしたのは、たったひとりの少女だった。
 少女の名は、MARIAといったのだ。
 そうして、今また彼の心を動かしつつある少女の名前も、MARIAという。これが単なる偶然であるはずがない。
 この少女は、彼のMARIAなのだ。
 数百年ものむかしに、暴力でもって奪われた、彼の女に違いない。
 ユーベルはそう思ったのだ。
 少女は名前だけを告げて、死んだように意識を手放した。その肌理細やかな肌にユーベルはそっと触れてみた。
 顔を寄せると、少女が覚えた恐怖や悲しみが、汗と涙の匂いに混じってユーベルの鼻孔を刺激する。それは、まだ彼の心の大半を麻痺させている憎悪を激しく燃えあがらせるのに充分なものだった。
 常に胸の奥深くでくすぶりつづける燠火となっていた憎悪である。ただあまりにも慢性的にくすぶりつづけていたために、彼自身意識していなかったというだけの。
 あの時久しぶりに霧が彼に伝えた、ひとの気配。
 最初彼は、複数だと感じなかったか?
 真剣に記憶を手繰った。
 ――――そうだ。
 彼の守る女城主―シュロスヘリン・マリアの最後の領土(テリトーリウム)。その端に感じたのは、確かに複数の気配だった。
 霧がすべてを覆い尽くす森と外のほぼ境界線上(グレンツ・シャイデ)。外の人間の恐れるぎりぎりのきわで、卑劣な輩は少女を手にかけたのだ。そうして殺したと思った輩は、マリアを彼のテリトーリウムへと運び込み、逃げたのに違いない。
 ふつり―――
 身内を駆け抜ける激情。
 それが、彼の姿を変貌させてゆく。
 じわり…と。
 ひとの姿から、獣へ―と。
 この日二度目の変貌だった。
 深夜の廃墟にこだます泣き声は、凍える心にも何がしかの感情を芽生えさせた。彼のよく聞こえる耳に、鳴き声は思いもかけず強烈だったのだ。ユーベルの心を動かしたほどに。獣からひとへと姿を変えたのは、それが最初だった。
 ユーベルは意識を失くしたマリアの、稚けないような寝顔をしばらくの間凝視した。
 かつて愛した女城主の顔が、だぶるような気がする。なぜなら、自分の心を動かした存在は、たった一人きり。彼の女だけだった。だから、本当に似ているかどうかは、実は問題ではない。自分がそうだと感じることのほうが、より重大なことなのだ。
 目を細め、何かを確かめるように、空気を嗅ぐ。
 そうして彼は、数百年間離れることのなかった城を後にしたのだ。


※ ※ ※


 石畳も瀟洒な古いドイツの町並は、星一つない夜闇の中、街灯にぼんやりと照らし出されている。
 領主の館を改装した、ホテル・メンツハウゼンの一室に真純はいた。アンティークな雰囲気のホテルは、それもそのはず、十五世紀以前の木造建造物に手を加えただけのものなのだ。
 四本の柱それぞれに紗の帳が括りつけられている古くて頑丈な木製のベッドに、真純は腰掛けている。
 白い掌を凝視する彼女の眉間には、くっきりと縦皺が刻まれていた。
 まりあの首を絞めた時の感触は、まだ生々しく掌に残っている。
 まりあの目が、まなざしが嫌いだった。幽霊が見えるらしい、普通じゃないまりあが気味悪くてならなかったのだ。そういう力を持つひとは案外多く、霊感とか呼ぶものだと知ってはいたけれど。しかし、それは誰が持っている力であろうとも、得体の知れないモノでしかなかったのだ。
 あの黒目がちの大きな目が、幽霊だけじゃなく自分の心の中まですべてを見透かしているかのように思えるのだ。そう考えてしまうだけで、恐ろしくてならなくなる。
 夫に対する裏切りを知りながら、そんな自分を憐れんでいるかのように思えて仕方がないのだった。
 それは、夫に対する罪悪感だった。
 しかし、そんなものなど胸の奥底に秘めておきたい。できるならば忘れていたいものである。なのにまりあの視線は、真純にとって、罪悪感を常に思い知らせるものだったのだ。
 そんな相手と一緒に暮らす生活は苦痛でしかない。
 幼さの残るまりあの顔の中に埋め込まれているのは、まだ何も知らないからこそきらきらときれいなままの瞳だった。
 まりあがすべてを見透かしていると感じるのは、自分の妄想に過ぎないのだと、真澄だってわかってはいる。が、一旦芽生えてしまった疑惑は、まりあの力とともに真純の心に根を下ろしてしまっていた。まりあが自分を見るたびに、真純は自分の罪を意識せずにはいられなかったのである。
 鏡原家はむかしからの資産家で、資産総額がどれほどになるのか、真純も正確な数字を知らない。そんな莫大な財産に守られて、ぬくぬくと暮らしたい。誰だって一度は考えるだろう。チャンスは有効に使わなければ。それは、夫の妻となる以前から真純が心の中に秘めていた欲望だった。
 そうして、それが叶うかのように、夫の死は突然訪れたのだ。
 しかし蓋を開けてみれば、夫は財産のほとんどすべてをまりあに譲る遺言書を残していた。鏡原家の動産も不動産も、ほとんどがまりあのものだった。真純に遺されるのは、全財産に比べると微々たるものでしかない。それだとて、一生生活に困ることはないだろうが、贅沢はできない。それが、不満だった。
 まりあの後見人にはなりたくなかった。これ以上血の繋がらない娘の相手で人生を棒に振るのは厭でならなくて。かといって、家を出てしまっては、不満な額の財産しか手に入れることはできない。――そういう点では、弁護士の上月は、若いだけあってか、厳しいのだ。鏡原家を出た時点で、後見を放棄したと判断するだろう。その後の後見人は、上月自身だった。
 身の振り方に関しては自由といえば自由だったが、不満はいつまでもくすぶるだろう。
 再婚するなら、自分は必ず鏡原を出てゆかなければならない。その条件は、まりあのためだろうと察しがつく。血も繋がっていなければ、気持ちも通じてはいない。そんな他人の間でまりあが辛い思いをしないで済むように。それは、肉親を失う愛娘に対する父親の思いやりなのだった。
 結局、夫は自分を信用してもいなければ、心から愛してくれてもいなかったのだ。遺言書が開かれた時に、真純はそう確信した。
 彼が愛したのは、血を分けた自分の子供、まりあだけだったのだ。自分は、空席になって見場の悪くなった妻の座を与えられたというだけの、とうのたった愛人に過ぎない。それはたしかに、彼の生前からうすうすは感じていたことだ。その虚しさのあまりに、彼が亡くなる何年も前から俊雄と付き合いだしたほどなのだが………。
(自分が夫を裏切ったのは確かだけれど、夫だって悪いのだ)
 その思いはかすかに真純の心を慰めた。しかし、その後がいけない。


 夫を殺したのは――俊雄だったのだ。


 つきあいだして少ししてから、真純は俊夫の我欲の強い性格を知った。しかし、それを知ったときには、抜き差しならないほど俊雄に溺れきっていたのだ。
 真純に譲られる財産の額の予想が外れて不機嫌な俊雄が、まりあを理由に自分を捨てようとしている。その危機感が耐えられないほどに、離れ難かったのだ。
 身も世もなく縋りついた真純の耳元で、俊雄はささやいた。
『まりあを殺るんだ。決して発見されない場所を知っている。お前のために夫は殺してやったろう。だから、次は、お前が、オレとお前、ふたりのために、ガキを殺すんだ』
 毒にまみれてねっとりと甘い、悪魔の声だった。
 そうして、真純は言われるままに自分の手で、まりあの首を絞めたのだ。
 なのに、俊雄は、人を殺した苦痛と恐怖と罪悪感を堪えきれずにいる自分に、やさしいことばの一つもかけてはくれない。それどころか、ホテルの最上階にある酒場に出かけて行ったのだ。
 まだ、震えはとまらない。
『あそこだったら誰にも見られずにすむ………。いわくつきの森だからな。せいぜい子供がいなくなった傷心の母親を演じてくれ』
 俊雄は部屋を出てゆく寸前に、そうことばを投げかけた。
 そうして、背中を向けたのだ。
 演じるまでもなかった。恐怖に震える自分を、誰もが子供の行方がわからなくなって不安でたまらないのだと、心配してくれている。なのに、俊雄は、突き放すようにして、自分を独りきりにしてしまったのだ。
 俊雄がわからない。
 愛していると、二人で暮らそうと、甘くささやく俊雄。そういう時の甘いムードなど微塵もない、今の俊雄は、まるで見知らぬ他人だった。
 ハハッ!
 突然真純の喉の奥から迸ったのは、哄笑だった。
 ベッドの上に、仰向けに転がる。
 自分がとてつもなく愚かなように感じられた。ひとしきり笑いの発作に身をまかせ、真純はようやく、高ぶった神経のままではあったものの、眠りにつくことができたのである。
「う…ん……俊雄?」
 気配に身じろぎ薄目を開けた。
 俊雄がバールから戻ってきたのかと思った。
 しかし―― 「ヒッ」
 真純は飛び起きた。
 食い入るように、真純はそれを凝視ししている。真純の両手は、ブラウスの喉もとを握り締めていた。
 それから視線を外すこともできない。
 否。
 恐怖のあまり、外せなかったのだ。
 それは、俊雄ではなかった。
 人ですらなく。
 巨大な闇そのもののように黒い、一頭の獣が、真純を見下ろしていた。
 ひとの頭など一飲みできるだろう禍々しくも鋸めいた牙の連なり。その間からぞろりと血のような長い舌を垂らし、唾液が床を濡らしている。そうして、何よりも強く真純の意識を呪縛したのは、一対の瞳だった。地獄の劫火もかくあらんばかりに憎悪を押しひそめた、炯々と輝く赤いまなざし。
「ケンネンズィマリアノッホ? (マリアを知っているか)」
 奇妙にくぐもった声が、真純の脳を直撃する。
 獣の喋っているのがドイツ語だと理解するのに、逡巡があった。自分は狂っているのではないか。これは、精神病棟の一室で、鎮静剤の眠りのただ中に見ている幻かもしれない。
 しかし、その思考こそが現実逃避だと、真純にはわかっていた。
「ケンネンズィマリアノッホ? ズィズィンドトィーテンマリア! ズィフィアザイネフェアブレッヒェベローネン! (マリアを知っているか? おまえはマリアを殺した! 罪の報いを受けるがいい!)」
 どうしてかこの化け物は、まりあを殺した自分を罰するために、ここにいる。自分は犯した罪の報いを受けるのだ。
 真純は、ゆるゆると、うなづいた。
 死にたくはなかったけれど、逃れられない。
 これは、決定だった。
 恐怖に麻痺した思考のまま、真純は、迫り来る断罪の牙を待ち受けたのである。


 俊雄は上機嫌だった。
 自然と鼻唄が出てしまう。
 計画が上手く運んだことが、楽しくてならなかったのだ。忌々しいガキも、馬鹿な女をたきつけて始末できた。当分の間は金には困らない。いずれ捨てるつもりの女だったが、今は彼女がいなくてはならない。娘を亡くした母親とその恋人という役割を演じなければ。怪しまれないためにも、娘を心配しているふりをして、あと一週間くらいはドイツを離れないほうがいいだろう。
 本場のビールはやはり美味く、ザウァー・クラウト(酢キャベツ)とヴィルスト(ソーセージ)も、旨かった。なにより豚の血入りのヴィルストは癖になる味だったのだ。
 俊雄は自分に都合のいいように計画を立てながら、部屋へと入っていった。
 俊雄の酔いが醒めるまで、十秒もかからなかったに違いない。
 部屋中に飛び散った、血。
 天井や壁にまで、点々と血は斑紋を描き、床には血だまりが今も広がりつつある。その、広がりゆく海の中に、真純の胴体が打ち捨てられていた。血の気の失せたせいで陶磁器のようにすべらかな肌の質感が、逆毛立つほどに異様だった。
 手も足も首すらも引き抜かれたさまは、まるでこどもの癇癪を受けた、人形めいていて。それを裏切るのは、ぱっくりと裂かれて腹圧のせいで内臓がはみ出ている腹部だった。
 機械的にめぐらせた俊雄の視線が、ベッドに釘づけになる。
 ピンクの小花を散らしたリネン地の掛け布団が、やけに異質だった。その上に、何か透明な粘液にねとりとまみれた頭部が転がっている。無くなっていると思った手も足も、よく見ればよじれた掛け布団の上に散らばっていて………。
 ヒッ!
 叫ぼうとしてその場に、腰を落とす。
 こみあげてくる吐き気を堪えきれず、嘔吐きあげる。アルコールのまざった酸性のきつい匂いが鼻孔を射るのにすら、気づかなかった。 
 寝室からまろび出ようとした俊雄は、何かに足を捕られてその場に転がった。
 しかし、したたかに打ったからだの痛みは、恐怖の前にはいかほどのものでもなかった。
 恐る恐る確かめた自分の足首を絡めとっているものを見て、俊雄の恐怖は頂点に達した。
 てらりと照明を弾く、イヤに鮮明なピンク色の管状のもの。それは、真純の腹部からはみ出した腸だった。
 ヒッ! ウッ…ワァー!
 魂消る悲鳴はしかし、大気を震わせはしなかった。
 黒々と艶やかな闇が、扉と俊雄との間に立ちはだかったのだ。
 コトン。
 俊雄の矜持は、そんな音とともに挫けた。
 腰を抜かして失禁した俊雄に、
「ケンネンズィマリアノッホ? ズィズィンドトィーテンマリア! ズィフィアザイネフェアブレッヒェベローネン!」
 奇妙に歪んだ声が、殷々とこだまする。
 しかし俊雄はすでに、現実から逃げ出していた。
 まりあをこの地で殺そうと計画を立てるきっかけとなったのは、ある昔話だった。教えてくれたのは、まだ学生だった彼がヨーロッパを貧乏旅行で回っていたときに知り合った女である。
 それは、他愛のない昔話だった しかし………。
『…その、モンストゥルムは、魔女を火刑で殺された恨みから村人たちを殺戮しつくしたの。モンストゥルムは巨大な黒い狼の姿をしてはいたけれど、人語を解し操った。後ろ足で立ち不自由なく動いたともいうわ。地獄の劫火のような瞳と口。牙はさながら鋸の歯にも似て―――今でも魔女の残した財宝を守って森をっていると伝えられているの。方位磁石は役に立たなくなるし、入ってもリング・ワンデリングとかいう現象が起きて、迷いに迷ったあげくもとの場所に戻ってしまう。そんな森。でもね、その現象がおきている間がはななのよ。懲りずに霧を押して入ってしまえば最後、帰ってきたひとはいない。………あっ。笑ってる。信じてないな。本当のことなんだからっ。今でもよ。だから、村のひとは誰も、あの森を“幽鬼の森”と呼んで近寄らないんだからっ。モンストゥルム…ウィーベル・レムゥレンに殺されるから』
 ユーベルともウィーベルともとれるような独特の発音で脅してこようとする女に、
(ユーベル“歓喜”とウィーベル“悪魔”か。一文字違っただけで大きな違いだよな。レムゥレンといえば幽鬼のことだし。まぁ、ご大層な名前ではある)
 と、そんなことを考えながら、女の迷信深さを馬鹿にしてあげつらったものだった。しかし、翌日になって、暇潰しにと、俊雄は女と一緒に“幽鬼の森”を見物に行ったのだ。
 濃い霧に鎖された森を一目見るなり、ぞわりと得体の知れない寒気が背筋を舐めたのを俊雄は思い出す。
(何故………?)
 疑問は声となっていたのか。それとともに現実に立ち戻った俊雄に、
「ズィズィンドトィーテンマリア !」
 より明瞭なモンストゥルムの声がかけられた。
 MARIA―――
『魔女の名前は、皮肉にも聖母マリアと同じだったの』
 今まで忘れていたあの時の女の台詞が、耳の奥でこだまする。
 MARIA―あのガキを殺したことが、伝説の化け物をよみがえらせたとでも言うのか。
 それは、ほぼ正鵠を射た解答ではあったが、今更である。
 遅すぎる。
 鋼のような爪のぞろりと生えた毛深い腕が、ガッチリと俊雄の頭と首とを掴んでいた。
 化け物の爪が頭皮と首とに食い込み、血が滲む。
(イヤ・ダ…。死ニタク…ナイ。死ニタクナンカ………ナイッ!)
 歯の根が合わない。
 どんなに許しを乞おうと、既に断罪は下されている。
 処刑人のあぎとに捕えられた俊雄に、もはや処罰を逃れるなどありはしないのだ。
 どんなに狂ったように暴れても、処刑人の爪がゆるむことはなかった。
 俊雄の四肢は次々と引き抜かれ、最後に首が捻じ切られたのだ。


 翌朝、“ニヒトシュティーレン(邪魔をしないで) ”の札のかけられていないドアを開けたホテルの従業員は、その場で腰を抜かした。
 そうして今一人、行方不明になった少女の部屋を掃除しようと入った従業員は、ぽかんと目と口とを見開きその場に立ち尽くす。
 ベッドが、消えていたのである。
 そうして、たしかにあったはずの少女の荷物までもが、一切無くなっていた。
 掛け布団だけが、唯一忘れさられでもしたかのように、床の上で白いかたまりになっているばかりである。
to be continued
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