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「ドクター」
腕に吸い込まれてゆく液体を眺めていた少年が、口を開いた。
少年から自分に声をかけてくるのは珍しい。
注射器を看護士に手渡しながら、
「なんでしょう」
弱りきっている少年に、新たな衝撃を与えないようにと、医師は、やわらかく返した。
「オレ、まだ、退院できないのか?」
褐色の瞳が、縋るように、医師を見ていた。
「ここから、出たい」
そう言うと、医師から視線を逸らし、枕に上半身をあずけたままで、項垂れた。
「なぁ。オレ、もう、治ってるんだろ? どこも、悪いとこなんか、ないよな」
再度医師を見上げた少年の、やっとのことで笑みを貼りつけたような、おどおどとした表情が、痛々しい。
肯定してやりたい衝動が、唐突に医師を捕らえた。
しかし、それは、できない相談だった。
雇い主云々というわけではない。事実として、少年の体調は、芳しくないのだ。
ここに運び込まれてきた当初よりも、線が細くなっている。
頬のラインが鋭くなり、顎が尖っているような印象を受ける。注射針を突き立てるのを思わず躊躇してしまいそうなほどに、肉の落ちた腕や聴診器を当てる胸の薄さが、憐れだった。
記憶を取り戻してから、少年の摂る食物の量は、以前にも増して少なくなっている。そのため、定期的に栄養を直接からだに送り込まなくてはならなかった。もっともそれは、あくまで、応急処置ではある。口から直接栄養を摂取することが、からだには良いに違いない。しかし、無理に多くを食べさせようとすれば、たいして食べていない食物を吐いてしまう。
それらの事実は、少年だとて、認識しているだろうに、退院したいと、治っていると、そう言うのか。
少年がここにいるのは、なにも肉体的な理由ばかりではない。なにより、精神的な理由のためなのだ。少年に自覚はないが、花をすべて赤いと感じ、怯える症状は、いまだ、改善されていなかった。
「なぁ、ドクター……たのむから。オレ、もう、ここにいたくない」
狂ってしまいそうだ――――少年のつぶやきを、医師は聞き逃しはしなかった。
「なにか、あるのですか?」
少年の痩せた手が、喉元を探る。
そのよく見せるしぐさに、医師の視線が、鋭くなる。
記憶を取り戻す三日前、庭で雨にうたれていた少年が発見された時、少年の喉には、くっきりとした赤い痕が残されていた。
誰かに首を絞められた痕のように見えた。
しかし、誰が、この少年を殺そうなどと考えるだろう。
あれは、ただ、高熱のためにそう見えただけに違いない。
それとも―――自分で、絞めたのだろうか。
いや。
医師は、否定する。
自分で自分の喉を、痕が残るほどには絞められない。あれは、高熱のせいで、赤く染まっていただけだ。
この少年に、自傷癖は、見当たらない。
それは、この少年にとっての、唯一の救いのように思えてならなかった。
「別に………」
歯切れが悪いのは、いつものことだ。しかし、
「なにか、あるのですね」
視線を逸らした少年のようすに、いつもとは違う何かを感じていた。
「何でも言ってくれてかまわないんですよ。私は、君の、主治医なんですから」
そういえば、これまで、こんなことばをかけたことはなかった――と、医師は気付いた。
少年との間に、信頼関係が築けるはずもない。
「………なんにもない」
小さく首を横に振った浅野は、目を瞑り、これで終わりとばかりに、ベッドに横たわり、医師に背中を向けた。
そう、なんでもないのだ。
医師が部屋から出てゆく気配を感じながら、浅野は、うつぶせになり枕にしがみついた。
あの日、記憶が戻ったあの日から、夜ごとに、清流が現われる。
恨みがまし気に、自分を凝視してくる。
昇紘に抱かれている間中、清流は、自分を見ている。そうして、帰った夜には、霜のように冷たい手で、喉を絞められる。
怨ずるような表情で、喉を絞めてくる。
気が狂ってしまいそうだった。
―――それとも、もう、狂ってしまっているのだろうか。
「もう、イヤだ………」
こみあげる涙を、枕に吸い込ませた。
一生、自分はここにいないといけないのだろうか。
死ぬまで?
それとも、昇紘が、飽きるまで――か?
ゾッとした。
今日は、昇紘が、来る。
突然、これまで以上に、それが、イヤなことに思えてならなくなった。
イヤだ。
浅野は、衝動的にベッドから抜け出していた。
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start 11:40 2005/09/12
up 9:01 2005/09/25
あとがき
短いですが、とりあえず、ここまでです。まだできてない。
また暗くなりそうだな………。
少しでも、楽しんでもらえていることを祈りつつ。